この雑記は、会員あるいは会友員の、練習の中での発見、楽しみといったものを載せたいと思っています。しかし、最初という事もありますので、今回は、太氣拳の中でも特に関心の高いと思われる、「気」について私の思っていることを簡単に書いてみます。
―「気」はあるか―
太氣拳は「気」の武術です。気がなければ、体をなさない。では、「気」はあるものなのか。あるとはどういうことか。通常、存在するものは計量できる。「気」は計量できるか。「気」が存在するならば、如何に計量するか
―沢井先生の「気」の話―。
残念ながら、「気」を計量する事はできない。何故か。太氣拳でいう気とは、気功治療師が隣室の患者を動かしたりする手品のような外気治療の類を言うのではない。「気」とは、行動の質をいう。沢井先生の「気」を説明する言葉に、川の中を泳ぐ魚を模したものがある。
「川の中を魚がゆっくりと泳いでいる。そこに、石を投げ込む。魚は刹那、パッと動き、また何事もなかったように泳ぐ。この、石が投げ込まれた瞬間の動きを「気」の動きという。」
この魚の動きは、計量化できない。それは、常に川の中の環境とその変化、魚自身の動きとその変化を相対化しなければならないからだ。環境の変化を自身の変化に結びつける感性、そして一定の動力定型を伴った運動能力との一致。それが、「気」の時である。
―自然な動き―
前述した「川の中の魚」の話は比喩的です。魚が武術の練習をした話は、聞いたことがない。なのに、「気」の動きをする。自然に動けば「気」は出るのか。先ほどの例をとれば、環境の変化に対し、瞬時に自身の変化で対応する。魚に入力された情報が、何の遅滞もなく反応を導き出し、全身で泳ぎ去る。魚の動きには勿論力みはない。自然に泳ぐだけです。あくまでも自然に(アタリマエカ)。人の場合はどうか。人も瞬間的に反応をすることはよくある。殴り合いなどはその典型である。むしろ、瞬間の反応の集積が殴り合いといえる。その反応は「気」の動きか。そうは行かない。どこが違うか。反応はともかく、動きの質を問題にしたい。先ほど言った動力定型の問題がここで出てくる。
―動力定型―
ただ動くのではなく、一定の動力定型にしたがって動く。この動力定型とは何か。これに何を求めるのか。
ここで、出てくるのが、中国拳法でよく言われる、勁力・発勁。これらは、無論中国拳法の専売特許ではありません。他の武術や、スポーツの中でも見られます。しかし、太氣拳の訓練体系は、この勁力・発勁の醸成を第一におく。そして、これらを手に入れるために、一定の「動力定型」を身につけるのです。通常の運動とは若干違った体の使い方のコツです。これを身に付け、使いこなす。太氣拳の訓練は、ここに集約されます。そのために行われるのが、推手であり組み手です。一人練習でじっくり身体を練る。どんな状態になっても、力が失われることの無いようにする。その上で、推手・組み手で人の圧力の中で、ヤスリをかける・砥ぐ。
砥がずに切れる刀は、ない。