●太気拳との出会い(3年間の体の変化について)
 

プロフィール

    ペンネーム:N(エヌ)
    年 齢:42歳 
    職 業:公務員、現在は、研究職で鉛筆より重いものを持たない勤務をしている。
        あと2年位でまた、現場に戻ると思われる。その後、また研究職になると思われる。
    住 所:横須賀市在住、平成15年念願のマイホーム(マンション)を買う。
    家 族:妻、子2人、長女:中3(反抗期バリバリ)、長男:小5(極真空手少年部の緑帯4級)

1−太気拳に出会うまで

(0〜21歳)

昭和39年  石川県金沢に生まれる。生まれてからまもなく、父の都合で大阪、東京と転勤し、小学校1年の終わりから、 生まれ故郷の石川県の金沢で生活するようになった。東京からの転校生ということで、言葉使いが女のよう だと難癖を付けられ、小学校2年から小学校5年生までは、毎日のように喧嘩。今考えると、家庭に不満が あり、そのはけ口として喧嘩をしていたように感じる。同じ学年では負け知らずで、1学年上と喧嘩をしていた。

小学生から体格がよく、小学校5年の時には、実父に腕相撲で勝つ。
今思えば、化け物のようなものだったかもしれない。(小学生が力で父親に勝つとは驚愕であろう。もし、 今の息子が私に腕相撲で勝ったら度肝を抜かれると思う。) 小学校2年生の時から格闘技は好きで、映画では「ブルース・リー」、マンガでは、「タイガーマスク」、 「リングにかけろ」や「空手バカ一代」なんかを良く読んでいた。喧嘩ばかりしているため、小5からク ラスで村八にされ、それから本を読むようになる。(それまで、まともに教科書を朗読することができなか った。)最大一日3冊程度読むようになり、小学校6年の時は、単行本を読むようになった。ジャンルはS Fである。その急激な読書のため視力が一気に悪くなり、小学校5年の4月に1.0から小学校5年11月 に0.4まで視力が落ちてしまった。

勉強は、中2から本格的に実施したが、高校受験に間に合わず、志望校は桜散る。
高校では、運動は自分で走ったりするぐらいで、勉強ばかりしていたように記憶している。ただし、ゲーム センターのパンチ測定器をよく叩き、毎回最高記録を出して喜んでいたように記憶している。(記憶では、 最大165kgを出していたように思う。)


昭和58年4月(18歳)

大学に入学、学部は電気科、格闘技は、小学校からやりたかったが、危ないからと親が 許してくれず、ようやく憧れの格闘技ができることとなる。
大学の徒手格闘技は、柔道、レスリング、空手、少林寺及びボクシングとあった。柔道及びレスリングの 組技系は好きではなかった。空手及び少林寺は寸止めであったため、実際に当てることのできるボクシング 部に入部することとした。

練習は、月曜日〜土曜日で毎日1時間半。練習内容は、体操3R、移動3R、縄跳び3R、シャドウ3R、 ミット又はサンドバック3R、マススパーリング2R×3ほどを日課としていた。大学時代の戦績は、12 戦8勝4敗、負けは全て判定負け、勝ち8勝のうち5KOだった。

1年の練習内容は最初の2ヶ月は、ずっと縄跳びを跳んでいた。
そして5月上旬〜6月 左ジャブ及び右ストレートの練習をしていたように記憶してい る。

8月、最初の夏合宿、初めて本格的なスパーリングを行う。2年生から3年生までをボ コボコにしたように覚えている。大学は、上下関係が厳しく1年生は奴隷扱いとなって いた。ボクシング部に行けば、実力の世界であり、ここで日頃の不満を一気にぶつけて いたように思う。
11月 神奈川大学トーナメントに出場、1、2回戦勝ち、決勝トーナメントで昨年の 優勝大学のキャプテンと対戦し、判定負けとなる。

昭和59年4月(大学2年生)

 モントリールオリンピックのボクシング監督をしたK氏が監督となる。この頃からボ クシングは、相手に殴られずに自分だけが殴るのが理想と考えるようになる。ボクシン グは、芸術だと考えるようになる。

この頃から、フック系統を練習するようになる。
練習では筋トレは、ほとんど行わず技術トレーニングがメインであった。右ストレートにおいては、 地面を蹴った力が腰にいき、最終的に手に乗る練習をした。イメージ的には、体をデンデン太鼓の 軸のようにし、手に力を入れず、腰の回転の接線上に腕が伸びていく練習をした。
また、ダブルボールと言って、上下にゴムの付いたボールを天井と床に固定し、それを移動しながら 打つ練習をしていた。

10月 神奈川大学トーナメントに参加する。記憶では1、2回戦目KO勝ち、決勝ト ーナメントで昨年負けた大学のキャプテンにまたもや負けてしまったように覚えている。
結局、そのキャプテンには最後までリベンジできなかった。

昭和60年5月(3年)

この頃からアッパーの練習を始める。大学1年でストレート、大学2年でフック、大学3年で アッパーと実に3年かけて、パンチを磨いてきたことになる。

9月 全日本選手権大会の神奈川予選に出場し、判定負けであった。
この時の負け方はひどく、今でも鮮明に覚えているが、相手のパンチが見えなかった。
見えなかったため、相手のパンチが自分に当たったと同時に自分のパンチを出し相手に当て (相手のパンチが当たるということは、自分のパンチも当たる間合いであるため。)最後まで何 とか根性で立っていたように感じる。相手のパンチに酔ってしまい終わってから便所に行って吐 いたように記憶している。
なお、この相手は、全日本第2位になったように記憶している。

この頃学園祭に友達と来た際に知り合った現在の妻と付き合いだす。
10月〜11月 神奈川リーグに参加、3戦3勝2KOであった。この時のKO記録において 1R(ラウンド)28秒という記録があり、今でも破られていないと思う。

昭和61年4月〜5月(大学4年生)

関東リーグに初めて出場する。私は体重が当時73kg程度あり、神奈川リーグは67 kgのウェルター級があったので、1年から出場していた。
しかし関東リーグは63kgのライトウェルター級までしかなかった。さすがに10kg以上の 減量はきつく、通常であれば、1週間で減量するところを約1ヶ月間かけておこなった。試合や 練習よりも減量の方が辛かったように覚えている。この関東リーグは1試合出たのみであったが 、2R(ラウンド)KO勝ち。監督から2週間後も試合にでるように言われたが、減量がイヤで 断ったように記憶している。

大学でのボクシングは、こんなところであり、1年生の入った時から強く、結構試合に出た方であった。
昭和62年3月(21歳)大学を卒業。
そして結婚する。


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