このコーナーは、太氣拳に関する皆様からの質問に答えるコーナーです。
基本的に天野先生より直接お答えします。
随時更新していくつもりですが、返答まで時間のかかる場合もございます。
また、質問内容によってはお答えしかねる場合もございますのであらかじめご了承ください。


ご質問はメールtaikikai@hotmail.comまで、件名を「Q&A」としてお送りください。


  Q: 天野先生、「中年から始める本物の中国拳法」大変参考になりました。私のように地方に住むものにとっては、DVD等の資料は、貴重な学習元となります。
「体力がなくなったからこそ、気付く強さというものがある」という言葉は、目から鱗が落ちるとともに、大変勇気づけられる言葉でありました。現在学んでいる太氣拳の稽古を振り返り、今後も、一つ一つ考えながら進みたいと思います。

さて、そこで質問があります。

それは、稽古の順番のことです。
太氣拳の稽古は、立禅→揺→這→練という順番に進んでいくと教えられ、現在基本的には、その順番で励んでいます。
しかし、仕事の都合により時間がなかなかとれず、この通りに進めることができないことがあります。体を緩める、自分の体に気付くということが大切だということは分かってきました。そのための稽古の順番でもあると思います。ですが、時間によっては、這のみ、練のみの稽古日ということがあっても構わないものなのでしょうか?
また、稽古の時間帯としては、夜よりはやはり早朝の方がよいものでしょうか?
はじめて2か月程の初心者ですので、本質を分かっていない稚拙な質問であるとは思います。
ですが、どんなに仕事が忙しくとも、生活の中に、自分なりにできるだけ正しく、質の良い稽古を取り入れ、積み重ねていきたいと思っております。
お答いただければうれしいです。
                    質問者 S

 
 
  A: メール拝見しました。
私もこのようなメールを頂くと、書いた甲斐があったと勇気付けられます。
頑張って稽古を続けてください。
稽古は裏切りません。

さて、質問にある稽古の順番です。
基本的にはやはり立禅から始まって順序だててやるのが一番だと思います。

何故か、というとそれにも理由があります。
立禅のように静的な稽古が一番身体を整えやすいからです。
稽古で一番大事なのは自分と向き合うこと。

では自分と向き合うと言葉で言うのは簡単ですが、一体どういう自分と向き合うのか。

それは普通の生活では見えてこない自分です。
これも別に難しいことではありません。

例えばの話し、自分の見えない部分ということで背中を例にとっても良いです。
皆さんは自分の背中の動きを感じ取れるでしょうか。
多分、背中を意識することは殆どないのが実際の生活だと思います。
何故なら見えないからです。
人は見えないものは無いものとして生活します。
だから生活の中で背中の変化や動きを感じ取れない。
試しに肩甲骨を動かせる人が、一体何人いるでしょうか。
あるいは肩甲骨を動かす、という発想すら持てないのが普通かもしれません。

ところが静的なところで身体が整える、つまり自分の身体と向かい合うということですが。
そうすると普段見えないところが感じられる。
ここでいえば肩甲骨とその周囲の神経や筋肉の動きが感じられる。
だから骨格として肩甲骨も操れる、ということになります。
まあ、肩甲骨は例ですから、これが動かせれば良いとかそういうことではありませんが・・・。

つまり、ここで言いたいのは静的な稽古で感じられたことが大事という事。
そして今度は動的な稽古、揺りや這い、練りといった稽古でもその感じられたことを失わずに動けるか、ということが課題になるということです。

動けば身体が受け取る情報量は飛躍的に増えます。
その中でも、ただ立っているときのように自分と向き合って、同じことを感じ取りながら動けるようにする。
 
つまり、静的な質を動的な稽古でも失わないように稽古する。
だから稽古の最初には、やはり立禅から始めるのが一番。

とまあ、これは話としては筋道は通っていますが、そう行かないのが普段の生活。
稽古の為に生きているわけではないですから、そんな杓子定規なことを言っても始まりません。
大事なことは、そのときその場でできる稽古をするといことです。

私自身、稽古で途中を飛ばしたりはしょったりします、あるいは立禅しか組まなかったりと色々です。
稽古を続けていればその時その時で課題が違ってきます。
そういうものです。

結論です。
基本は基本、立禅から始めるのが最良。
でも、ケース・バイ・ケースでも別に問題ありません。

できる時にできる物を、これで良いと思います。
太気拳の稽古は、どの稽古もみんな一つの方向を向いています。

それを見つけるのも面白いものです。

                   太気会 天野
 
 

  Q: 早速の丁寧なご回答、ありがとうございます。
その後、先生のお返事を元によく考えて、その結果を稽古で試してみました。

相手と接触した後前に出ると、剣道の場合には間が詰まり過ぎ、つば ぜり合いからの技か返し胴のような形でなければ打てないように思われます。むしろ、技を出し合う前の剣先での攻め合いの方が「空間を奪う」とい う状態に近いように感じられました。これまで、剣先の争いは、「中心 を取る」という感覚が中心で、私は「点」や「線」のようにイメージし ていました。
「相手の竹刀を中心から押し出して、自分の竹刀が中心を取る」「相手 の竹刀が強ければ、反対から中心を取る」というような感覚です。相手 も同じことを意図しているので、なかなか簡単には取れず、無理をする と崩れてしまって、逆に打たれるという事態も起こります。
しかし、先生のお話を元に「作業スペース」という感覚を意識すると、新しい展開が期待できるように思われます。今はよくわかりませんが、研究したいと思います。

一方、剣先での空間の奪い合いの状態は、太気拳の推手の状態に近い ようにも感じられます。「空間」を意識した時に、推手で気をつけなけ ればならないことは何なのでしょうか。
お教え頂ければ、幸いです。

       福岡  N
 
 
  A: 「相手と接触した後前に出ると、剣道の場合には間が詰まり過ぎ」とあります。
そうです、組み手でも同様のことが起こります。

まず、これは当たり前のことだと思ってください。
これを嫌がってはいけません。
もし人が嫌がるのなら、これこそ一番工夫し甲斐のあるところかもしれません。
前回も書きましたが、私の打つ間合いは非常に近い。
いや、私が近いのではなく、皆遠いところで打つことしか知らないのだと思います。
相手の中に入ったところ、実は此処が一番安全なのを皆知らないのです。
一番よいところを知らないのではと思います。

自分が前に出る、相手が下がれば良いですがそうでなければ間合いがつまり、空間がせばまる。
これを恐れてはいけないと思います。
その時に前に出る力がものをいいます。
組み手でも、鍔迫り合いのようになりますが、大事なのはその時に触れ合ったまま相手の重心を奪えるかどうかです。
相手も崩れていいない、こちらも同じ。
触れ合った瞬間にそうなっては五分五分です。
そこで五分になっては前に出る意味がありません。
触れ合った瞬間に相手に圧力が自分より上かそれとも下か、それを感じ取ることが大事です。
これはくり返し相手とぶつかって身体で覚えるよりありません。
太気ではそれを推手や組み手でやります。
そして相手をそれこそ力で押しつぶせると感じたら、腰を思い切りぶつける様にして相手の空間を潰します。
力で潰せるときに、技なんていりません。

否、それを瞬間に判断できる出来ないが、それこそ技と言うものの本質と言うものです。

相手が前を向いていられないようなくらいにして始末を付けます。 相手の力によって、その時にそのままか、あるいは相手の中心をちょっと左右に振ってから前の出ます。
もし、相手の圧力が強くて力でいけないとその瞬間に判断したら、引くかあるいは左右に変化します。
これも真っ直ぐに引いたりしてはやられます。
その加減は言葉では無理です。
くり返し言いますが、それを判断できる出来ないが技です。
技は形ではありません。

しかし、どちらにしても自分の力がしっかりと前に出ていることが大事です。

良く中国拳法と名乗る人が推手をやっているのを見ることがありますが、殆どはただ手を合わせているだけ。
大事なのは自分の力(腕力だけではありません)が相手に対して真っ直ぐに向かっていることが第一番です。
それがない推手は何の意味もありません。
接点を通じて相手の中心に迫る力を探す。
それが大事です。
相手を押しつぶす力が基本にあってこその変化です。

剣道は良くわかりませんが、良くテレビで見ると鍔迫り合いからどちらかが引き際に胴や面をとるようです。
つまり下がれば圧力から逃れられるのでしょうか。

推手では相手が圧力に負けて下がればそのまま、それこそ相撲の押し出しのように壁まで間髪入れずに持って行きます。
相手を打つのはその後でも十分間に合います。
こちらに圧力があれば、下がって竹刀を振るう暇は無いように思えるのですが。
相手が接点から力を抜いて変化しようとした瞬間こそ狙い目です。
接点は推手では腕、鍔迫り合いでは竹刀。
でも相手にしているのは腕でも竹刀でもなく、相手の中心です。
接点を維持するのは技術ですが、それを支えるのは腹と腰が腕を押し出す力です。
推手の注意点は接点がどう変化しても、圧力が変化しないことです。
つまり、接点が動いているように見えます、
しかし実は接点は動いてはいますが変化してはいません。
そのために身体全体が変化するのです。
常に接点を腹と腰で支えるわけです。
それを十分に身体に沁みこませます。
形ではなく、その感覚がしみこんで初めて腕に力が滲み出ます。

触れてからの変化、これが実は一番稽古し甲斐のあることだと思っています。
離れているところからの打ち合いは、体格・体力や年齢に左右されがちです。
ですが、触れてからの変化は稽古したものの勝ちです。
工夫したものの勝ちです。

鍔迫り合いからの変化、力、これをしっかりやると違う局面が見えてくるかもしれませんね。

私の先生の沢井健一氏も随分剣の修行はされたようです。
剣は手の延長だ、とよく言われていました。
私は剣は疎いですが、何かの役に立てばと思います。

                   太気会 天野


天野 敏 先生

ご回答ありがとうございます。

先生のご回答の中に剣道の高段の先生がおっしゃることと共通するものがたくさんあることに 驚きました。作業スペースをつぶすお話も「相手の剣を殺し、技を殺し、気を殺す」という三殺法の教えを連想させます。 極めた人のお話には共通点があるものなのですね。

最近、練りが気持ちよくでき、それに連れて体が軽く感じるように なってきました。 先生がいつか書かれていた「立禅をすると鼻がなぜか通る」というお話はその時は「そんなものなのかな」と思って読んでおりましたが、最近時々実感できます。

早速、鍔迫り合いも含めて、研究していきたいと思います。ありがと うございました。


                                             質問者 N

 
 

  Q: 先生の『組手再入門』、興味深く読ませて頂きました。
いつもながら、実体験に基づく具体的でわかりやすい内容で、むさぼ るように 読んでしまいました。

その中で、「空間で蹴りを抑える」という写真があり(p 69)、この「空間」 というものについて、おうかがいしたく、メールさせて頂きました。

私は剣道を学んでいます。いつも先生のお話は、剣道書と共通する内 容が多く、 しかも禅用語などの剣道書に多い難しい言葉が少ないので、ありがたく 拝読して おります。

『組手再入門』を読んで、地稽古の際に『空間』を意識してみまし た。竹刀を 突きつけられると、なかなか平常心ではいられないのですが、相手の竹 刀が自分 を打つ時には必ず通らねばならない空間があり、その空間を意識すると 少し気持 ちが楽になります。「ここに入ってきたものだけはじき出せば、打たれ ない」と いう感覚です。しかし、これは守りの感覚で、結局最後には打たれてし まいます。

太気拳における「空間」の意味とは何なのか。もう少し詳しくお教え 頂けない でしょうか。よろしく、お願い致します。

                               福 岡 N
 
 
  A: 質問から剣道への情熱や工夫が感じられます。本当に稽古で苦心しているものにしか分からない疑問だと思います。

空間に関することを言葉で表現するのは非常に厄介です。
しかし、文中に「相手の竹 刀が自分を打つ時には必ず通らねばならない空間があり・・・」とあります。
これを感じられているのなら話せそうな気がします。
この感覚は非常に大切で、これを稽古の中でN君が見つけたとしたら、その苦労は大変なことだと思います。

多くの人は、ただ守ろうとか、こうきたらこうとか漫然と相手を見がちです。しかし、相手が人間であり、自分と同じように手足がある以上、また手足の置き場所(構え)がある以上そこから始まり自分のところに攻撃が届くには無限の可能性があるように思えても、実際はそうではありません。

そこには通らなくてはならない道があります。
v つまり自分という陣地に相手が攻めてくるにはいくつかのルートを通らざるを得ない、だからその道を塞ぐことが大事だということになります。ちょっとしたこの発想が大きな違いに育ちます。
つまり相手の攻撃を防ぐというのではなく、その道筋を塞ぐということです。
攻撃を避けるということと、攻撃の道筋・ルートを潰すというのは一見すると同じように見えますが、内容は天地の差ほどの違いがあります。

大事なのは此処です。

此処が見えるか見えないかが分かれ目と言えるくらい大事なところです。そして此処からの工夫が更なる分かれ目ともなります。

「ここに入ってきたものだけはじき出せば、打たれない」とあるのは空間を守る感覚が芽生えてきているからですが、更に一歩進むためにもう一つ工夫してみてください。

それは「相手の空間を潰す」ということです。

相手の攻撃をはじき出した瞬間に相手の空間を潰すにはどうすれば良いか、です。僕の場合はその瞬間にほんの僅か、それが10センチかあるいは数センチ、ひょっとすると数ミリくらいかもしれませんが前に出ます。
その瞬間に相手とのあいだに新しい空間が立ち現れます。相手の攻撃を受けるのは身体のやることで、どう受けるかなんていうことは考える暇もないし必要もありません。身体が勝手に動くようにするには稽古するのみです。

だから心がけるのは、相手が此処に居ると思っている自分の場所からほんの僅かでも前に出ること。それによって相手の空間を奪い、同時に自分の新しい空間を作り出すこと。

昨年末に組み手のビデオを出しました。それを見てもらえると分かるかもしれませんが、僕が相手を打つ位置は非常に近いんです。つまり手を伸ばせば、相手の後頭部を打てるくらいの距離で打ちます。

組み手をすればお互いに手を出す距離や瞬間は見えてくるものです。殆どの人はそこしかないと思っています。だから同じところでどちらが速いとか、どちらが効いたとか言うところでやっています。その瞬間の奪い合いしかやりません。

そんなのはいくらやっても頭打ち。成功もあれば失敗もあるといったところです。

そうではなく、その瞬間に空間を奪うことが出来れば、正直言って相手を打つ必要もないくらいです。
もっともそこで打たないと打たれることもあります、だからしょうがないから打ちますが・・・(笑)。

空間というのは言ってみれば作業スペースです。お互いに離れていればそのスペースは確保できますが、接近すればするほどその奪い合いになります。接触した際の変化はその奪い合いです。
自分が相手を打った瞬間、あるいは相手の攻撃をはじいた瞬間、その瞬間にどう変化するかです。
その時に相手のスペースを奪い、同時に自分のスペースを確保できれば「自分は打てても打たれない」という実に都合の良い瞬間が生まれます。
打つのはそれからで十分間に合います。だから大事なのはその変化を研究することだと思います。

一番大事なのは距離や速さではなく、空間の感覚と瞬間の変化です。頑張って稽古してください。この文章が役に立つことを祈っています。

                          太気会 天野

 
 

  Q: 天野先生 先日はご指導頂き本当にありがとうございました。 自分は天野先生の「中年からはじめる本物の中国武術」のDVDを見て立禅を始めました。ひざを緩める、全身を緩めるとあったので、 立禅を組むと足が震え、体制がつまづいたように前に崩れる、足で耐えようとして気持ちが、足ばかりに行ってしまい、五感を開くという 気持ちの余裕、リラックスが出来ていないので、これでいいのだろうか?と思い質問させて頂きましたが、痛くない立ち方を見つけるまで よけいな事は考えずに続けてがんばろうと思います。

ここでまた質問させて頂きたいのですが、大氣拳とは体力に頼らない方法なんだなと解釈しましたが、稽古の一環としてランニングや 空手の様に拳を鍛えたり、上半身の筋トレはいっさい行わないのでしょうか?
今は立禅しかわからないので教えて頂けないでしょうか?

北海道 YS

 
 
  A: 確かに稽古をする時に体力に頼った稽古をしてもしょうがないと思います。
体力に頼った稽古は、当たり前ですが体力が衰えればそれでおしまい。
面白くもなんともありません。
しかし、体力に頼らないということと体力がなくても良い、ということとは別の問題です。
よく中国拳法に対する憧れに、体力がなくても強くなれそうだから、と言うパターンがありそうですが、 非力な人間が非力なまま強くなると言うのは、単なる幻想です。
そうあって欲しいと言うことと、そうであることとは別です。
何をやるにしても、それを支える体力は必要です。
僕は昔から筋肉トレーニングをやったことはありませんが、もし質問のYS君が非力な方ならやっても良いと思います。

「中年からはじめる本物の中国武術」で立禅については結構細かく書いてあるので分かると思いますが、 立禅を組むにしても、きちんと組めばそれこそ最初は5分立つのがやっとのはず。
それが続けることにより、徐々に足裏やふくらはぎ、腰や背中、肩の筋肉等もついてきます。
またそういった見える筋肉だけではなく、普段感じられない部分も鍛えられていきます。

無論筋肉が鍛えられればそれで十分と言うことではないですが、そういった効果も無視できません。

体力のある人間が体力に頼らない稽古をするのと、体力のない人間が体力に頼らない稽古をするのとどちらがいいか。
答えは自明でしょう。

ただし重いものを持ち上げればいいと言うのではなく、自分の身体を柔軟に動かせるような体力の育成を心がければいいと思います。
そういう意味ではランニングなどはいいと思います。
それから拳を鍛えることですが、コレはあまり意味ありません。
拳の強さを言うなら拳ダコを自慢するより、握力の方が大事ですから。

                   太気会 天野

 
 

  Q: 天野先生 立禅をはじめてから2週間ぐらいたとうとしていますが筋肉はついたのですが、体が熱くなるなどの変化はまだありません。

立禅のやり方が間違ってるのでしょうか?体に感じる感覚のままを受け入れればいいとQ&Aで読んだのでイメージの風船を抱くような イメージなどが出来ていないせいでしょうか?立禅の時間も足ががくがくして5分も連続で出来ていない状況です。時間が短いせいでしょうか? 体勢もくずれてもすぐに直して続ければいいのでしょうか? どうかアドバイスお願いします。

北海道YS

 
 
  A: さて、どういう風に答えればいいかちょっと迷います。
立禅を何故やるのか、その答えは光の当てかたによっていくらでもでてくると思います。
しかし、その全部には答えられませんから、的を絞って話します。
 
以前、5分も禅を組むと足が痛くなって筋肉痛になるという質問がありました。
これは当たり前のことです。腰を落とせば足に負担がある。なれないうちは筋肉もついていないから痛くなる。

では筋肉がついたら楽になるかと言うとそうでもない。
肩が痛くなったり、腰が痛くなったり、背中が張ったりする。ぜんぜん楽にならない。楽に組むと口で言うのは簡単だが、そうはいかない。

そうです、楽に組めない。ここが大事です。

それでも頑張って組む。一時間でも組んでみる。それを繰り返すことで身体が勝手に、つまり自分の思惑とは別に身体が楽を見つけようとする。
これが大事です。
頭が考えるより、身体が考えます。
そのために痛くても退屈でも我慢して組む。

痛いから痛くない立ち方を身体が見つけます。
手先足先の力ではなく、いわゆる体幹の力を見つけてくれます。
退屈だから退屈しない気持ちの置き方を見つけてくれます。
つまり今自分が知らないものを身体が見つけるということです。

稽古はまだ自分で見えないことを見ようとすること。
だから今の自分の考えなんていうのは、言ってみれば泳げない人が泳ぎかたを想像してるようなもの。
愚直と言う言葉がありますが、わからなくても愚直に稽古することしか先に進む道はないということです。
そしていつか泳げるようになったとき、ああ、あの時は何もわかってなかったな、と気が付くものです。

それから、身体が熱くなるとありますが、そんなことに拘ることは全く必要ありません。
また風船のイメージもよく言われますが、それは何年もすれば自然に感じられるもの。
感じられた時に、ああこれか、と思えばいいだけです。結果としてそう感じるものだ、と思っていればそれで十分です。

立禅を組み始めて2週間とのこと。
立禅を組むなんて簡単なことだ、とみんな思います。
でもたった2週間で、どう立って良いのか分からなくなるほど、立つということは難しいという事。
僕もこんな感じで立てばいいのかな、と思い始めたのはつい最近。
結果をあわてて求めすぎない事。
誰でもすぐ分かることなら、やっても大した価値はないって言うこともあるから、のんびり長いスパンでものを考えて稽古していってください。

自分と向き合う稽古をすれば、稽古は裏切ることはないから。

                         太気会 天野

 
 

  Q: 天野先生,初めてメールさせていただきます。

私は空手を始めて13年経ちます。
このごろやっと基本や約束組手で力みが取れてきたなと感じられるようになってきたのですが,自由組手となるとだめです。結局,心と体の一体感がつかめていないのだと思います。

心と体の一致させる方法として呼吸が大事で,それに気を乗せるというか合わせるということが少しずつ分かってきましたので,三戦で鍛錬しています。三戦によって気も養成できるのですが,空手には内家拳ほど詳しい気の養成方法が確立されていないように感じます。

そこで,2年ほど前より先生の著書やDVDを教科書として,立禅に取り組んでいます。現在,立禅をしていると下半身と腕,胸に奇妙な感覚が表れ始めています。

天野先生に教えていただきたいことがあるのですが,立禅の際の呼吸についてです。呼吸の仕方について,腹式呼吸なのか逆式呼吸なのか,座禅のように息を吐ききっていっぱいまで吸い込むのか,それとも自然に任せるのか,その他呼吸をする際の注意点などを教えいただけると嬉しい限りです。

武の世界では修行年数13年なんて鼻たれ小僧ですが,技の質を高める気持ちを持って励んでいきたいと思います。どうかよろしくお願いいたします。
  
 
 
  A: 空手を13年との事、いろいろな事がわかってくると同時に自分の限界も感じてくる頃だと思います。負けないでがんばってください。
 
さて、今回の質問は呼吸についてですが、それ以外にも他の人にも共通の問題があるのではと思うので、これを機会に書いてみようと思います。
 
まず最初に呼吸について。呼吸には腹式と胸式があります。
と言うか、二つあるように考えられています。確かに腹式と胸式に分けて呼吸をする事が出来ますが、それは単にできるというだけで、自然な呼吸と言うのはその両方を併せ持っているものです。
呼吸は不思議なもので、意識しないでも自然にしますが、止めたり或いは深呼吸をしたりと意図的にコントロールする事が出来ます。
簡単に言えば呼吸筋は随意筋と言うことでしょう。逆に言えば随意筋だからコントロールできる。だからどちらか良いほうにすればよい。と考えるのかもしれません。
ところが武術と言う事で考えれば、正直に言って、そんなことに神経を遣う必要はない、或いは暇はないと言うのが正直なところだ。そんなことに気をつけることより、他に気にしなければいけないことが人と向かい合ったら山ほどある。幾ら腹式呼吸がいいからといって、それを気にしながらでは約束組み手さえ出来ません。
だから、そんなこと呼吸に気をつけるよりも自然な呼吸でいることのほうが大事です。つまり、自然に任せる、或いはどんな時でも自然な呼吸でいられるようにする事が稽古です。

よく腹式呼吸をする事で、気持ちを落ち着かせると言う人がいます。それはそれで間違いではないと思います。
なぜなら、緊張したり興奮したりすると、肩や背中が緊張します。そうなると腹筋が動かなくなり、結果的に胸式呼吸になりがちだからです。
図式的に言えば、気持ちが緊張する、身体が硬くなる、背も腹も緊張する、だから呼吸が胸式になる、場合によっては呼吸も止まる。それに対する処方として腹式呼吸を意識する事で背や腹の緊張をほぐし、ひいては身体を緩め、気持ちの平静を取り戻す。
気持ちで起こった緊張を身体から解きほぐす、と言うこと。簡単に言えば風邪を引いたときに薬を飲む、その薬が腹式呼吸。
だからそう言う意味では腹式も覚えておいたほうがいいと思います。入学試験の会場で上がってしまった、などという時は有効かもしれません。
ただ武術で言えば、もっと大事な事があります。何かと言うと、事にあたった時にも当たり前な自然な呼吸でいる事。つまり過緊張にならず自然な気持ちと身体でいる事です。
呼吸は気持ちが乱れれば、乱れるものです。つまり呼吸は気持ちの結果。だから大事なのは乱れない気持ちを育てることのほうが呼吸をいじる事よりもっともっと大事と言うです。

さて、質問の最初にあった自由組み手と約束組み手の距離感です。
多くに場合この二つは全く別のものです。約束組み手は約束です。だからできる、当たり前です。
相手がこう来たらこう動こう、と思ってタイミングを合わせてやる。ところが自由組み手はそうはいかない。こう来るかもしれないし、来ないかもしれない。そんな状況の中で、約束組み手の内容が生きるか、と考えてみると良くわかる。
皆約束組み手の技術や技を自由組み手に生かそうと考える、其処が大きな間違い。では何が大事なのか。

質問の最初に約束なら力みが取れる、しかし自由組み手ではそういかない。と書いてあります。此処に実は答えがあります。
つまり約束組み手で得られる事は、力みを取れば何かが出来る、と言うことを知ることです。
決してこう来たらこうと言う技術ではない。そんな技なんて言うものは、力みや緊張がなければその場に応じて出てくるものだし、そうでなければいけない。組み手の中で複雑な事なんかできるわけがない。
だから何かをやろうとするのではなく、何でもできるような力みの取れた状態で相手と向かい合う。これが出来れば十分。組み手では出来ない事はどんなにがんばってやろうとしても出来ない。だからせめて出来る事をやり切れる状態に自分を置いて、自分がなにをやるか楽しむような気持ちでやること。

出来ない事を出来るように努力する事は大事だけど、組み手のときは出来る事しか出来ない。そう腹をくくって自然な気持ちで向かい合う、それしかないと思います。組み手でうまくやる必要なんて全然ないからです。上手くいかないからこそ次の課題が出てくるもんです。

                                  太気会 天野

天野先生

大変多忙の毎日を送られているにもかかわらず,面識もない自分に身に余るほどの親切丁寧なご指導を賜り,心より感謝申し上げます。
先生のお言葉を読んだ後,武道はすべてにおいて気持ちが一番重要であることが分かりました。このことは良く耳にする言葉ですが,自分が今まで持っていた気持ちというのは,相手に気位負けしないようにするある意味緊張の連続の意識の持ち方でした。そうではなくて,自然な状態を保つ気持ちがいかに大切なのかということに気付きました。そういえば,何気なしに立っているか細い木々もちょっとやそっとの力ではびくともしませんね。
私は,自然な心の状態を身につけるための呼吸法が,いつのまにか腹式か胸式かという形にとらわれていました。また,組手においては力を抜いてと,耳にたこができるくらい聞かされているのに,打とう,受けよう,蹴ろうという形に意識が行っていました。当然,先生のおっしゃるとおり,息は上がり,体に余分な力が入っている状態です。空手を覚えた手の頃は,移動稽古のとき,何も考えずに足を一歩踏み出していたのに,今は思うような一歩が出せない状況です。言われてみればそうかということが,実際になかなかできないのがこの世界なのですね。自分の体なのに,思うように動かせないことを痛感しています。
「約束組手の本質は,力まなければ何かができることを知ること」・・・天野先生のこのお言葉は,行き詰っていた私に明確な方向性を示してくれました。こうきたらこうする言い換えれば,何かをしなければならないという行動をとる今までの自分から,何かができるつまり,無意識に何が出るか分からないが何らかの動作ががひょいと出てくるこれからの自分を目指すということです。当然これからの稽古での意識の置き方も変わってきます。なんだか,再び空手が楽しくなってきました。私の空手がこの先どのようなものになっていくのかわくわくします。
天野先生,本当にありがとうございました。先生のおかげで形にとらわれていた過ちに気付き,何が大切なのかが分かりました。後は,実行です。励んでいきたいと思います。先生ご自身と太気会の益々の御活躍をお祈りいたしまして,お礼の言葉とさせていただきます。


                                             質問者 N

 

 

 
  Q: 久しぶりにメール致します。
 『太気拳の扉』と先生のDVDを見ながら、立禅や這いを稽古しています。
成人してから剣道を始めたのですが、特に足捌きなどによい効果が出ているように感じています。一方、試合などになると途端に動きが固くなるのです。
立禅を中心とした稽古は、長く続ければ精神的な面での効果も期待でき るのでしょうか。

                         福岡 N

  

 
  A: メール拝見しました。

剣道においての足捌きに良い効果が出ているとの事。
脚に神経が行き渡り、身体全体のまとまりが出てきているのでしょう。
これからも続けてください。

さて、精神的な面の効果と言うことですが、これも稽古では大事です。
正直に言って、人のやる事は全て気持ちがやらせるもの。
気持ちがうわずれば動きもうわずります。
そうなっては、対人練習で力を引き出せません。
稽古場では力を出せても、いざという時に持っているものが出てこないということになります。
これは弟子達の稽古を見ていても良くあります。
彼らを見ていて感じるのは、身体の問題と言うよりむしろ気持ちの問題を感じる事の方が多いくらいです。

では、気持ちの問題に対してどう対処するか。

と言うことですが、実は太気拳の稽古は最初からその問題に答えを用意しているような気がしてなりません。

それは立禅です。

立禅をどの様に組むか、です。
気持ちに関しては立禅を組んでいる時のような気分で人に対する、と言うことが大事です。
では、その時はどの様な気分か、と聞かれても説明できません。
ただ、どの様にして人と向かい合ってもそのストレスを乗り越えられるような気分を作るか、については話す事は出来ます。

立禅のときの注意点です。

大事な事は、遠くを見ますが見ることにとらわれずに五感を開く事です。
遠くを見てもそれに捉われずに、聞くこと、つまり遠くの音を聞くようにしたりします。

あるいは背後の気配に気を配る事も大事です。
そうする事で眼の前の事ではなく、全体に向かって気持ちを開くような感じになります。

その感じを失わずに人に向かいます。
立禅を組んでいると、何かボーっとした気持ちになります。
その気持ちこそが実はとても大事なのです。
その気分を事に及んでも失わない事です。

人と向かい合っても、立禅を組んでいる時の茫洋とした気分でいるようにすること。
それがとても大事な事です。
もちろん這いの時も同じ気分です。
簡単に出来る事ではありませんが、一人のときにそういった気分になる事が出来れば、人と向かい合っても出来るはずです。
緊張する場面でも自分を失わずにいること、これがどれだけ大事な事か判るのは自分を失ってしまった経験のある人だけです。

立禅を生かすという事があります。
稽古していると意識しなくても何となくそうなってくる、と言う事もあります。
しかし、それだけでは不十分です。
人と向かい合っても意識的に気分を立禅のときのようにもっていく事。
そう言う風にしてください。

ともすると気持ちや気分、あるいは精神的なことを忘れてからだの事にばかり気が行ってしまう人が多いようです。
その意味では、気持ちの面に眼が向くとの事。
とても大事な事に気がついたね、といった気がします。
武術はこれを乗り越えないと見えてきません。

僕がこう来たらこうするといった技術論が嫌いなのは、この気持ちの問題を無視しているからです。
この気持ちの問題こそが、武術をやっていて乗り超えなければいけない大きな壁だからです。
気持ちがあって初めて身体が動くものです。
太気拳をやっていて面白いな、と思うのは問題が出てくると初めて答えが稽古の中にある、と気がつくことです。
当たり前ですが、問題意識がなければ答えも出てきません。
これからは気持ちの問題も含めて、立禅や這いを剣道に生かしてください。

                                  太気会 天野

いつもながらわかりやすいお答えを頂きまして、ありがとうございます。

剣道の書籍も何冊も読みましたが、禅の言葉など高尚なお話が多く、 逆に難しいものが多いように思われます。 しかし、先生のお話は、具体的で 言葉も簡単な表現なのでわかりやすいと感じます。虚飾がなく、実体験に基 づいたことだけだからなのでしょう。

足は、以前はぎこちなく動いて打った後ばたばたする感じでしたが、 立禅を中心とした稽古を取り入れるようになって 、2年くらいした頃、気が つくとスムーズに動けるようになり、足が軽く感じるようになっていました。

もう3年近く続けていますが、最近は、立禅の時に先生のぼーっとする 感じと周りの空気が少し重くなったような感じが する時があります。地稽古 (組手)の時にもそんな感じの時もあり、そんな時には考えるより先に打て ていた、という ことがあります。とても、気持ちのよい瞬間です。ただ、いつもとはいかず、また試合や審査となると足が何を踏んでいるにも かわからず、 気がつくと行ってはいけないところで、夢中で出て行って打たれるとなって しまいます。

先生のご助言を参考にして、立禅の状態をいろんな場所で保てること を稽古の目標にしたいと思います。これも剣道の 言葉でいえば、「平常心」 とか「剣道の日常化」という言葉で表されることになるのでしょうが、先生 のお話は具体的なので、目標と しても明確に設定できるのがすばらしいと思います。ありがとうございました。

                                             福岡 N

 
 

  Q:  初めまして、私は他武術の修行をしている者ですが、鍛錬や全身の協調を養うために立禅をやっております。天野先生の著書「太気拳の扉」を拝読していますが、質問が二つございます。

 ひとつは、足裏で地面をつかむ感覚で立禅を15分ほどしていると、他の部位はなんともないのに足裏(特に土踏まず)が痛くなることです。これはやり方が間違っているのか、それとも単に鍛え方がたりないのでしょうか?

 もうひとつは、先生の著書において「骨盤の左右の傾斜および交叉伸展反射」の際「右側の骨盤を引き上げるようにするが、足裏が地についているので左側の骨盤がさがり重心が右側に移る」とゆう部分です。この場合骨盤の下がった方に重心がいかないように、引き上げようとする方の筋肉を緊張させて重心を移すとゆう、やや強引な(?)方法をしていますが、正しいやり方なのでしょうか?無駄に力んでいるのではと疑問を持っております。

 著書の読み込みが足りないのかもしれませんが、お答え頂ければ幸いです。
 
 
  A: メール拝見しました。
本を頼りの稽古は大変だと思います。
こういったメールを頂くと、正しく伝えるという事の難しさを痛感します。

先ず最初の土踏まずが痛くなるということ。
多分力の入れすぎだと思います。
地面を軽くつかむ感じで、強くつかむ必要はありません。
あるいはつかむ感覚が感じられるだけで十分です。
肝心なのは足の指の感覚、足首や膝そして股関節の感覚を目覚めさせる事が出来ればいいと思います。
そしてそれをどんな時でも持続させる事です。

さて、次の骨盤に関してです。

ですがその前に一言いっておきます。

質問文にあった正しい・正しくないというのは評価です。
必要なのは評価ではなく、自分が何かを感じ取ってそれを生かそうとすることです。
そう言う意味では、質問の方は感じているけれども活かしかたが分からない、と言うことでしょう。
その意味で言ってみれば正しい悩み方をしていると思います。

疑問に思う、という事が稽古するということです。
でももし僕が、それが正しい、といったらもう疑問を持たないでしょうか。
正しいと言われたけど、本当にそうだろうか、何で正しいんだろうか、と思わないでしょうか。

たぶん、疑問に思うでしょう。

つまり、正しい・正しくない、間違っている、間違っていない、の答えを永遠に求め続けるのが稽古というものかもしれません。
稽古するという事は様々な事を発見するという事ですが、発見するということが実は次の疑問の出発点になって行きます。

人に正しいといわれたから、そう疑問も持たずに稽古する。
多分、そんな人なら他の武術をやっていて、あえて立禅など組まないと思います。

さて、骨盤の件です。
大事なのは動く、つまり重心の転換をどんな力で行うのか、です。
ほとんどの人は脚で動くと思っていますが、それだけではありません。
勿論脚や腰の力も使いますが、同時に骨盤の傾斜する力を生かすことで力強い変化に通じていくのです。
骨盤が傾斜すれば自然に片方は引きあがり、逆は踏み込むようになります。
そんな当たり前のことを、当たり前に自分の動きにしていけばいいのです。
最初は意識的に、そしてそのうちに当たり前に骨盤の力を活かしながら動けるようになります。

骨盤を傾斜させる力は腹の力です。
それを感じていく事が大事。
その力を感じたら、それを生かして動く事を工夫すればいいわけです。
腹の力を使うと、上体の変化が引き出されます。
そこからまた発見があると思います。
これもまた、大事なのはその感覚を持続させる事です。

立禅は形ではなく、そこで得られた感覚を動いても動かなくても失わないでいることです。
そうすれば、その質は失われない訳です。
そしてその質をブラッシュ・アップするのが日々の稽古です。

ですから、本の内容どおりではなく、あるいは形を真似しようとしないで、自分のスタイルを作るように稽古してください。
本の内容はあくまで僕自身のものにすぎません。
真似しようとすると、強引な事もしてしまいがちです。
武術はあくまで自分自身の中にあります。
現れ方はそれぞれの形、違いがあって当然です。
自分の身体の中で起こっている事を伝える事は本当に難しい、そう思います。
これは質問している当人も同じだと思います。
いつも歯がゆいものを感じます。
そんな思いで、立禅に関してだけの映像とテキストを製作中です。

http://www.1oldpine.com/taikiken

勿論、先々は他の内容にも触れていきたいと思いますが、とりあえずは立禅だけで一時間くらいの内容になるはずです。
それが出来上がったら、それも参考にしてもらえればと思います。

                                  太気会 天野
 

 

  Q: 天野先生、初めてメールさせていただきます。
私は日本拳法の経験がある39才の男です。
最近年令の影響で、体力の衰えを感じ始めており、仕事で道場にも通えず、武道から遠ざかり気味でした。
天野先生の著作「太気拳の扉」を購入したのがきっかけで、立禅を見よう見まねで1週間程、1日15分やってみたところ、体の感覚が違う事に気がついたので、質問させていただけないかとメールした次第です。

立禅で、腰を普段より押し出し気味に真直ぐに立てようとしていると、尾てい骨と股関節、両側の腰骨あたりに力が入り硬く緊張している違和感を感じました。
この違和感を抜けないかともぞもぞしてみました(楽な姿勢を探せと著作にあったからです)。
3日目くらいに緊張が無くなり、尾てい骨が下に、膝に向かってグ−ンと引っ張られるような感じが出て、また背中の下から膝上にかけてからっぽになった様な感覚がありました。更に足が重くなり足裏が地面に刺さるような感じも。
この状態で顎を引くと背骨が上下に引っ張られる感じがあります。
太気拳で言われている上下の力と言うのはこのような状態を言うのでしょうか?
また歩く時にこの尾てい骨の感じを意識すると腰が軽く、しかし足は重い感覚があり、歩こうと思うとこれまでより楽に速く歩けます。変な言い方ですが、思うだけで勝手に足が動いている感じがあり「なんで?いいのかこんなことしてて?」ととまどったりすることもあります。

初心者的な質問ですいません。文面だけですが、何か間違っていそうであれば御指摘お願い申し上げます。
どうぞ宜しくお願いします。

  

 
  A: メール拝見しました。
立禅をやっていると実にいろいろな感覚が出てきます。
たつという単純なことを、実はないがしろにしてきたということがよく判ります。
そこで静かに立っていると今まで見えなかったことが見えてきます。

質問では「上下の力」という事でしたが、それは何の事はないただの整理の際の名前にすぎません。
身体の繋がりは実に複雑怪奇。
実は言葉に出来ることではないと思っています。
ただ、ある瞬間にある状態になったときに、ああ、これがそうか、とひらめく時があります。
その時のために、私はいろいろ書いているつもりです。
形ではなく、内部の感覚を文章にするという事は実に難しく、書く事はできてもそれを共有することは至難の業。
ただ大事な事は身体から出てきたものに嘘はない、という事です。
もしここで私が「それが上下の力です」等と言ったら、「ああ、これが上下に力と言うものか」で終ってしまいます。
身体から出てきた感覚を育てて、次々に発見を続けていくことが稽古と言うことです。

感覚に名前をつけて何かを共有した安心感を持ちたいと言うのは十分わかります。
しかし、自分の身体の主は自分自身です。
一つ一つに名前をつけることなんかありません。
名前をつけると他の可能性が手から零れ落ちます。
一つの感覚を手蔓に、もっともっと探してみてください。
自分の身体という宇宙を探検するつもりで禅を組んでいけば、もっと色々な事を見つけていくことが出来ます。

実際に見つけた感覚をもって、動くことが出来れば動きが変っていくのも事実。
そういった工夫もいつの間にか、自分を育てて行きます。
それを楽しみにこれからも稽古して行ってください。

それから39歳との事ですが、武術はそこからです。
体力が落ちて、とありますが、まさにそれが原点。
体力に任せていくらやっても、体力が落ちればそれで終わり。
体力がなくなって出来ないのは、体力がなくては出来ないことばかりやっているからです。
みんなそう思っているようですが、そこからこそが出発点。
なんといっても、強くなるという事は、弱い人間が強いものに勝つということ。
やっと弱くなって、武術に向かい合えると言うものです。

変な話、体力が落ちて良かったねって事もあるかもしれません。
何故なら、体力に頼らない、という事を知ることが出来るからです。

                       太気会 天野

 

 

  Q: 先日は丁寧にご指導いただきありがとうございました。
あたりまえのことですがまったくの独学と指導していただいた「違い」を明確に感じ取れたと思います。
先生のDVDを購入いたしました。私のように実際の指導が多く受けられない者にとっては絶対必要で、わかりやすい内容に驚きました。(それにしても先生の動きはとても人間技とは思えません)
代々木公園で先生に指導いただいたゆっくりとした体重移動(這?)の動きは理屈ではわかりましたが、
どうにもピンとこなかったのですがDVDを参考にその動きをやっていたところ体が理解してきました。体をリラックスさせて中心線を崩さないように移動すると、体が勝手にあのように(タコのような)なるということが実感できました。
私が武道を習う根拠は普通の爺さんになりたくないという信念からで、死ぬ間際まで空を飛んでいたいという夢を実現するための基礎です。
一瞬の自然の変化に対応するための感や、足腰の強化、体の柔軟性は空を安全に飛ぶためには絶対不可欠です。DVDや本(残念ながら先生の本は見つけられず、拳聖澤井健一先生という本を購入致しました)で知る限り太気拳はそのすべてをカバーし、それ以上のものを引き出すものだと感じました。
ゆっくりですが、ずっと続けて行きたいと思っておりますのでご指導のほどよろしくお願いいたします。

*本を読んだ限りでは立禅や這は腰の低さが強調されて低いほどよいようなイメージを持ちますが、実際低ければ動きが制限されるように思います。練習ではつらくてもなるべく低くして、慣れることによって動けるようになるのが良いのか、またはある程度楽な程度(動きやすい)で練習するのが良いのか、と思いながら楽な(動ける)位置を探したり、ぐっと低くしてみたりしておりますが、実際はどのような感じが良いのでしょうか?

会友員 I

 

 
  A: I 君へ
>普通の爺さんになりたくないという信念からで、死ぬ間際まで空を飛んでいたいという夢を実現するため

はは、僕も全く同じです。
僕の同年代でも、もう既に半分死んでるようなのもいます。
死ぬまで生きていると言う実感を持っていたい。
最後のときに、よく生きたな〜って言いたいと思っています。
よく生きてよく死にたいものです。

さて、腰の高さと言う質問。
これは低ければ良いと言うものでもありません。
だからと言って高くてもよいというものでも無い。
大切なのは脚ではなく腰で立つと言う感覚を見つけること。
腰を落としても膝を緩められなければいけません。
立禅は文字通り立って組む禅ですが、感覚的には座っている感じです。
腰を落とすと膝が緊張しますが、それを出来るだけ緩められるようにします。
そうするためにはいろいろバランスや身体の調整が必要です。
それをじっくり探すのが立禅です。
スキーのジャンプの選手の感じ。
そうそう、九十九里の生まれで子供の頃は当たり前にサーフィンをやっていたって言うことですから例にとります。
大波のとき、テイクオフしてボトムターンと言う時の、思いっきり腰と全身でボードを蹴りこむ感じに似ています。
腰の弾力と言うか、全身の弾力と言うか、そんな感じをつかむことが大事だと思います。
脚ではなく、全身で立ち上がり、縮みこむと言う感じです。
それを感じながら姿勢を保ちます。
両膝はお互いに反発し引き合うような感じです。
下半身はきちっとしていますが、上半身、特に腹や背は緩むような感じを見つけていくのが大事だと思います。
下半身は常にバネのような弾力を持ちながら、上半身はリラックスして変化への対応を担う準備を整える、という事でしょうか。
上半身が動けば、すぐに下半身が弾力で応じられるようにしていきます。
バネのような感覚、これを見つけるように立禅を組むと良いと思います。

文章ではなかなか上手く説明できず、もどかしい限りですが、次の機会もあります。
一杯疑問を溜め込んできてください。
稽古すればするほど疑問がたまります。
それを解決するのが稽古ですが、一緒に稽古することで簡単に解決できることもありますから。
次回の稽古を楽しみにしています。
                   太気会 天野
 
 

  Q: ごぶさたしております。8月に基礎講座でお世話になったTです。
最近更新されたQ&Aに「意念」についてありましたので私にも質問させてください。

8月の基礎講座では、天野先生に力が入りすぎていることを指摘していただき、自分ではまったく気づいていなかったので、勉強になりました。
その後、力を抜くことを心がけ立禅を組んでいますが、以前にあった「風船を抱えるような抵抗感」がイメ−ジできず、イメ−ジしようとすると以前のように力が入っている状態になってしまいます。
イメ−ジは意識せずに当面はリラックスを念頭においた立禅の方がよいのでしょうか?(リラックスした方が 気持ちよく禅が組めますが・・・)
リラックスした立禅をしていると自然に抵抗感が意識しなくても生まれてくるのでしょうか?

以上、よろしくお願いいたします。

 
 
  A: 「風船を抱く」と言う意念というものがあって、その為に風船を抱くと言うイメージを持つ。イメージが出てこないと、あるいは感じられないと禅の組み方が悪いのでは、と思ってしまうようです。
以前も書いたことがあると思いますが、意念やイメージは力を抜いて立つことで自然に感じられてくるものです。
意念は思い込むことではなく、身体の中のつながりが作り出してくれるもののような気がしています。
のんびりと力を抜いていれば、そのうちに感じられてくるはずです。いや、感じられなければ別にそれで構わないです。
身体を自然な状態に置くことを見つけ、その状態をキープしていく。組み手や推手でもそれを守っていく事が必要です。
立禅などで風船や樹を抱く意念というものが先験的にあって、それを感じられなければいけない、と言うものではなく、人それぞれで違った感覚が出てくればそれで十分です。何かが感じられれば良いのです。
なんか妙な感じ、で十分。
なんと言ってもヒトの感覚はそのヒトの生まれた文化や環境によって違うわけですから。

                          太気会 天野

 

 

  Q:  今回2度目のメールをさせていただきます。以前上下の力について質問させていただいきました。海外生活のため太氣拳の練習は一人でやっているので、ご返答はまさに千金に値する物でした。 あれから少しずつですが先生の言われた事が身体で解ってきたのか、動く時にグンッと大きな力を感じるようになってきました。

さて、今回も一つ質問をさせていただきたいのですが、最近私は、乗り物を待つ時や何らかの事情で立ち続けなければならない時に、極力立禅の要領で立って少しでも時間を有効に使うようにしていますが、人中で立つ時には、膝をゆるめたり、特に腕を身体から離したりという事はなかなか出来ないのですが、 ”外見上の正しい立禅” が出来ない練習というのは逆に悪影響がありうるのでしょうか。

太氣拳の練習はほぼ毎日1時間位ずつやっているのですが、武術の姿勢は私生活にも活かすべき、あるいはどっちの姿勢も同じという事はよく耳にします。立禅で大事なのは外見でなく内面だとは思うのですが、ただ、そういった膝が伸びきったり、腕が体側に自然に垂れていたりした外見上練習の姿勢でない私生活の姿勢のせいで逆に影響を及ぼさないか、あるいは無意味でないか少し心配です。ひょっとしたら練習以外のときは、練習の結果として出てくる姿勢でいればいいのではないかと。

以前、他の方の質問で椅子に座った練習法が紹介されていましたが、もし街中で普通に直立して立っている時、あるいは歩く時など意識出来ることがあればアドバイスいただけますでしょうか。 宜しくお願いします。
 
 
  A:  本やビデオを参考にしての稽古はいろいろ大変だと思いますが、がんばってください。

さて、日常生活での生かし方、と言う事。
難しいですね、いや日常生活に生かす事が難しいのではなく、メールでの返事が難しい、と言う事です。
ただ、自分の経験からすると、もちろん通常の稽古でいろいろ発見する事も多いですが、実は電車の中だとか、あるいは唯立っている時だとか、そんなときに発見があったりした経験はそれこそ山ほどあります。
弟子たちと話していてもやはりそのようです。
電車のつり革につかまっている時に、腕の力の方向を見つけたり、それこそ上下の力の確認が出来たりと、様々のようです。

電車の中などでは、もちろん腕を前に出して、等は出来ません。
しかし、立禅と同じような感じでたつことは出来ます。
脚の指で軽く地面をつかむようにし、膝をそうとは見えない程度(ズボンのたるみvの範囲内)に曲げてみる。
これだけで、つり革に頼らなくても転ぶ気遣いは無くなります。
その上で、揺れた瞬間に頭で天井を押さえるようにしてみます。
そうするとますます安定してくるものです。
そんな時は腕を自然に下げ、わきの下にわずかに隙間を空ける程度でいいでしょう。

また歩くときですが、急いでいるときは出来ませんが、のんびり散歩、と言ったようなときは、それこそ雲の上で雲を踏みぬかないように歩いてみるのもいいでしょう。
膝を軟らかくし、骨盤を意識できるようになると思います。
骨盤を意識できるようになると、次にいわゆる腹の動きが見えてきます。
日常生活でも出来る事はたくさんあるものです。
いろいろ工夫してみてください。

それから、「外見上の正しい立禅」と言う言葉がありましたが、注意点はもちろん形に関してになります。
しかし、目的は形を作るためにあるのではなく、身体の内部のまとまりを作るためのものですから立禅の形が作れないときは、それはそれで気にしないでやっていいと思います。
また、内面と言う言葉がありましたが、まず大事な事は自分の身体と向かい合うこと。

そしてその上で、自分の周りの環境にも注意を向けていられるような状態を作る事です。

自分の中にこもりきらず、また逆にまわりに引きずられる事もない、と言った事でしょうか。
実は立禅のこんな感覚は、組み手などの時の感覚とまったく同じです。
相手に惑わされず、自分を見失わない。
ここら辺が太気拳の非常に具体的なところです。
立禅がなにやら抽象的な精神養成ではなく、そのまま組み手などの時の心の持ち方を教えてくれるわけです。

海外での生活、様々なストレスもあると思います。
太気拳が何かの役に立っていると思うと嬉しい気がします。

                          太気会 天野
 

  Q: 久しぶりにメールさせて頂きます。 先日は丁寧な回答本当にありがとうございました!

私は空手の練習と共に天野先生の本を読みながら独学で太気拳の立禅などをやっているのですが天野先生の言う通り立禅のさいにイメージを持つ事で非常にバランスが安定し参考になっています。
そこで気になったのですがこの立禅のイメージ(意念)と言うのは澤井先生の教えの中に元からあった教えなのでしょうか?
それとも天野先生の本の中の、あらすじにある様に意拳と交流を持つ様になって天野先生自身の独学によって考えついたのでしょうか??

何度も質問ばかりして申し訳ありません
 
 
  A:  意念ということに関して言えば、立禅のときに「樹を抱くように」と言われたのは、よく本に書かれているのと同様です。 ただ、個別の基本的な稽古に関してこのような意念を持つように、などというのは覚えはありません。

ただよく言われたのは、君たちの稽古にはまだ気持ちが入っていない、と言われたのはよく覚えています。 要は形だけの稽古しかしていない、と言う風な言われかただったと今は思っています。
しかし、実際の組み手の指導や技の指導のときはそれこそイメージを伝えようと言う事に重点が置かれていたように思います。

拳法は神経と身体の運動です。それを伝えようとすればそこにイメージが介在するのは当たり前。イメージの介在しない形は単なる死んだ形で伝える必要も無いものです。何か確固としたものを身体に取り込むとき、そこに必ず固有の「重み付け」あるいは「価値付け」とも言うものが形成されるのだと思います。そこで生まれるのがイメージであり、意念です。つまり何かに意味を見出せばそこにイメージあるいは意念が発生する、と言うわけです。そういう意味ではイメージを引き出せないものは意味のないもの、とも言い換えられます。

中国の意拳が紹介された影響でしょうか、何か意念という言葉が独り歩き。何か特別な高級食材のような扱われ方しているのを見ると、不思議な感じです。なんといっても当たり前にあるものだからです。

                                                                   太気会 天野
 

 

  Q: はじめまして、
私は武道経験は弓道で2段(高校の3年間)のみで、
現在は波乗り(スキムボード、ファンボード)をやっています。
 
<<質問>>
先生の重心移動の力強さ、腕力はどこから来るのでしょうか。
波乗りをする上で、パドリングの一掻きや
ターン時の蹴り込みの弱さに悩んでいます。
個人的にはスクワットや腕立てを限界まで毎晩行っていますが、
これを継続して先生のような瞬発力が身につくような気が
しません。
 
先生の体がプロサーファーの進藤晃さんと同じようにマッチョではないように
見えるので門外漢である私には不思議に見えます。
 
<<動機>>
私は小学生の頃から継続してトレーニングをしてきて、まだ27歳なのに、トレーニングが役に立たない体に変化している感覚があります。
以前は、腕立てとスクワットが200回できでば試合に勝てるし、体がバスケットボールのように弾む感覚があったのですが、現在は体が重くなるだけで、結果に結びつかなくなってきています。

それに対して、ローカルのサーファーは年齢に関係なく人によってはおなかが出ていても、ショートボードを乗りこなしていますし、先生もビデオの中で鉄の塊が動いているような移動をされていたので老化と筋肉の質に関係は無いのかなと疑問に思いメールにて質問をいたしました。
 
 
  A: メール拝見しました。

サーフィンは楽しいですね。
波に乗るのも楽しいし、ボーっと波を待っているのもいいモンです。
私はコンペ志向ではないのでのんびりやってます。
私の近くの海は波が小さい事が多いので、ロングが中心。
たまにファンボードもやりますが、波と相談しながらです。

さて、老化と筋肉の質、という事。
もちろん関係は大有りだと思います。
年とともに筋肉も衰えると思います。
私自身、実感しています。
ただ、拳法という事で考えると、ここ数年で自分が飛躍的に進歩した、と思います。
大事な事は身体のなかに中心を作り上げる事です。
筋トレでできる事は、部分的な筋肉を鍛える事でしかありません。
身体全体を中心に向かってまとめる、と言う一番大事なことができません。
身体に中心があるということを見つけるのがまず必要な事です。
太気拳の大事な事は、中心の感覚を見つけ出し、その感覚を失わずに動いていく事です。

手や足はそういう意味ではおまけのような感じです。
サーフィンやスキーはそんな感じを身につけやすいスポーツだと思います。
私の場合、立禅で自分の中心の感覚を見つけました。
サーフィンをやってみて、その感覚が立禅と似ている事に驚きました。
ちょうど大波でトップターンをした直後、加速するのを待つ瞬間のような感じが立禅です。
そんな瞬間を持続させて、身体の中心を見つけます。
5分でも10分でも良いですから、そんな感じでボードに乗っている感じで腰を落とし、真っ直ぐに立って見てください。
きっとサーフィンにも役立つと思います。

                                                                   太気会 天野

 

 

  Q: 初めまして。

先生の著書と大気拳挑戦講座のDVDを見ながら現在独学で大気拳を学ばせていただいております。初めてから約1年がすぎ、最近では立禅も10分から15分くらい立てるようになりました。このたびご質問させていただきたいのは先日、立禅と這が終わったあと友人から電話があり、正座をして2分くらい話をして電話終了とともに立ち上がろうとしたら、下半身の力が抜けて立ち上がろうとしても立ち上がれず、(両足が真っ直ぐ伸びて固まったような感覚)このような状態が20秒から30秒くらい続き、どうしようかなと心配になってしまいました。先生の長い修行生活の中でこのようなことはご経験がおありでしょうか?大気拳の練習の影響でなければ一度医者に行こうとも考えています。

先生のご経験の中でお答えをいただければ幸いです。

よろしくお願いいたします。

 

 
  A: 立禅と這いの後に正座をして、足が動かなくなった、との事。
当然ですが、稽古では筋肉が緊張を強いられます。
その結果として鍛えられていくわけです。
私は医者ではないので、詳しいことは判りませんが、そういった直後に正座をして血行を悪くするのはどちらにしてもいいことだとは思えません。
一般的なスポーツと同じで、稽古の前には柔軟体操が必要だと思いますし、稽古が終わったらやはりクールダウンが必要です。
今回の事の原因が何かはわかりませんが、そのあたりにも気をつけて稽古してください。
太気拳を稽古して強くなる、という事はすなわち健康になる、という事だと思います。
人生にとって本当に大事な事は、毎日を健康で豊かに送ることだと思います。
太気拳はそう言った事ためにもあるものですから。

                    太気会 天野

  

 

  Q: 天野先生、初めてメールさせて頂きます。
私は、福岡の博多でカラテをやっております、33歳の男です。
天野先生や太気拳の先生方のビデオや著書を拝見させて頂き、立禅を2年半程続けております。
最近では、出来るだけ踵を上げて30分程、出来る様になりました。
以前では恥ずかしながら、キレ易い性格というか、気に入らない事があると物に当たる癖があったのですが、最近では仕事でもカラテでも落ち着いて対処出来る様になり、立禅に出会えた事、太気拳に出会えた事に感謝しております。
さて、質問なんですが技という物は、太気拳において、『立禅』『這い』『練り』等…全ての要素が一つになった物だと読んだ事があり、そう解釈しました…
と言いつつ、立禅しかやれて無いのが現状である私が聞ける立場では無いのですが、組手においてカウンターを稽古するには、やはり全ての事をやった方が良いのでしょうか?
ぶしつけな質問で申し訳ありませんがヒントを頂きたいと思いメールを書きました。
どうか宜しくお願いします。

 

 
  A: 立禅と言うのは不思議なものだな、と思います。
何かをやって何かがわかる、というのは判る気がします。
ところが、何もやらずにいることでわかることがある、というのが立禅。
のんびり立っていることで、身体の方が教えてくれるような気がします。
焦りは無用。
焦って判ろうとしても、何をわかればいいのかが判らないものです。
だから、身体がいつか教えてくれるまでのんびり立つしかないんです。
そんな立禅がひょっとすると切れやすい?せいかくをかえつつあるのかもしれませんね。

さて、稽古に関してですが、これはもちろん立禅だけでなくほかの稽古も必要です。
立禅は静的なところで様々なことに気付かせてくれます。
それはじっと立っているから身体も安定し、気持ちも安定しているからです。
言ってみれば静的だからこそ感じられることです。
そして武術として大事な事は、動いてもそのいい状態を失わない、と言うことです。
最初は静的なところでしか保てなかったものを動きながらも失わずにいられるようになること。
そして次には対人というストレスの中でも保ち続けること。
そうなって初めて立禅が武術に活きはじめるのだと思います。
特にカウンターがどうと言う訳ではなく、どのように動いても身体が安定していれば、想うとおりに動けるものだと思います。
言ってみれば、立禅はそれぞれのレベルでの理想的な状態。
その理想を、動いてもあるいは対人練習でも失わない事。
だから立禅のみでなく、他の稽古もやってみてください。
2年半続けているとの事、きっとこれから新しいことがいっぱい見えてくると想います。

がんばってください。

何時の日か、一緒に稽古できると良いですね。

                太気会 天野

 

 

  Q: 天野先生の著作「太気拳の扉」の中で能楽 師の安田登氏と対談をされていましたが、その中で天野先生の動きは大腰筋が使われている。とありましたが太気拳の練習方法の中で大腰筋を鍛える練習はどれになるのでしょうか?? 個人的には立禅、這い。の練習で大腰筋が使われる様になるのではないかと思っているのですが。   
  
  A: メール拝見しました。 最近大腰筋とか深層筋とかそう言った形で武術を理解しようと言う人が多いようです。しかし、そのような方法で理解しようとするとますます武術から遠ざかってしまうと思います。 何故と言って武術は理解ではないからです。もし理解と言う言葉が出てくるとすれば、それはなにものかを自分の中に作り上げた時に初めて出てくるものだと思います。ただし、その時も決して部分ではなく自分という存在の把握と言う感じだと思います。部分の筋肉をどう使う、等ではなく身体全体をどのようにして一つにしていくか、という事が先ず一番の基本にあるからです。 質問にある大腰筋に関してもそうです。大腰筋はどの稽古でも必要です。いや、稽古の時に使わない筋肉などはないでしょう。この稽古でここを鍛えてなどと言うものではありません。全てを満遍なく使うという事が身体全体を使うという事ですから。日常生活で人は十分に身体を調和させて使う事が出来ないのが普通です。だから質問のように部分をどう使うか、と言う疑問が出てくるのだと思います。しかし、太気拳の稽古はそう言った普通から脱却するためのものです。何故と言って、普通の感性からは普通の強さしか出てこないからです。多分ある程度太気をやった人間は部分をどうするかと言った発想はなくなっていると思います。部分にこだわるのではなく、身体全体を大きな一つのものとして把握することを要求されているのが太気拳だからです。  

                                                                   太気会 天野

 

  Q: 前に太気拳と意拳の這いの違いについて質問したものです。この前は分かりやすい回答有り難うございました。
今回も質問があるのですが、お願い致します。それは「練り」についてなんですが、練りによって攻撃や防御が自由に出来ると言う事ですが、それは練りと言った普遍的な動作の中に武術的な動作が含まれている事から、それによって防御しようと体が動いた時には、例えば今まで習ったことの無い防御方法でも自然に武術的な動作が出来ており対処できている、と言う事で間違い無いのでしょうか?単純な質問で申し訳ありません。

 

 
  A: 練りについての質問ですが、まあ練りに限らずいろいろな意味があると思いますので、一つの見方という事で答えてみたいと思います。
 
まず、練の一番大事な部分に身体をまとめると言うことがあります。
身体をまとめるという意味がある、と言うことはその前提にみんな身体がまとまっていないと言う認識があります。
実はこれはとても大事なことです。
みんな自分の体がまとまっていないと言う認識がないからです。
太気会に新しい人が入ってくる時、まず自分の身体がまとまっていないということに気がついてもらうことが一番大事だと思っています。
そこから全てが始まります。
歩くと言うことも含めて身体がばらばらなのが普通です。
そこで練りを通じてまとまりのあるからだの動きを作っていくわけです。
つまり動いていく時の「動力定型」とも言うべきものです。
言ってみれば、身体の動きの手順整備とも言うべきものです。
上半身と下半身の協調は言うに及ばず、右手と左手あるいは右足と左足といったものさえ十分でなのが普通です。
それを練りを通じて整備していくわけです。
体がまとまるということは動きがスムースにいくということも含め、動きの中に力があると言うことです。
これができれば、速さは別にして動けば技になるものです。
いろいろな武術の型を見たりすることもありますが、還元すれば太気拳の練りに大体収まってしまう気がします。
動きの質を変えていくと言う作業が練りの一番大事な部分です。
 
練りの動きが身についてきたら、次に必要なことはその動きに意味を与えてやることです。
それは推手や組み手で発見することもあるし、私が教えることもあります。
そのように意味を与えられた動きが、「技」と一般に言われているものになるわけです。
与えられる意味はそれが必要とされる状況によって違ってきます。
だから時には拳法に、また時には剣に、あるいは武術の枠組みを離れて、様々なスポーツにも生きていくものだと思います。
私も運動好きで、いろいろなスポーツをやってきましたが「もし昔から太気拳を知っていたら、もっとスポーツが上手くなったのに」と思うことがあります。
 
質問の中に「防御方法」と言う言葉がありますが、どんな方法もその前提になる身体のまとまりがなければ、やはりそれは「絵に描いた餅」になってしまうのでは、と思います。
あせらず、じっくりと自分の動きを作り出すことができるようにがんばってください。

                                                                   太気会 天野

 
  Q: 先日は、大変わかりやすい、そして明確なご回答を頂きまして、ありがとうございます。
「両手が繋がって感じられたら、それを引き伸ばしたり捻ったりして身体のほかの部分との関係を探るのです。是非いろいろ工夫してみてください。」という先生のお言葉をもとに立禅中に、両手を左右や斜めに引き伸ばしたりしてみました。手と手はゴムを引き伸ばすような感触があるのですが、同時に膝も腕と同じように動きます。
練りの動作と共通するものを感じました。

ところで、最近立禅を長くしていると、最初は足が痛かったり腕の付け根が痛かったりするのですが、時々気持ちがいいというか、そのような気分になり、立禅を終えた後、すっきりした気分になることがあります。これも、一般的なことなのでしょうか。

   

 
  A: メールから一生懸命に稽古している感じが伝わってきます。
メールでは言葉だけでしか使うことができませんが、それでも稽古で感触が変わってきているのが伝わってきて、とてもうれしいと思います。
 
さて、「腕の動きにつれて膝が動く」とありますが、その通りです。腕が動けば膝が動きます。
勿論膝だけでなくほかのところも動きたがります。
それが身体の繋がり、と言うものです。
身体全部がそれぞれに関連を持って動く。
どこも単独に動くのではなく、身体全体が一つの動きに呼応していく。
太気拳の動きはそういうものだと思います。
それが進んでいけば、気持ちが動けば身体が動き、身体が動けば気持ちが動く、と言うふうになるものです。
ますますがんばってください。
 
それから立禅のあとにすっきりとした気持ちになる、とありますが、そうです、その通りだと思います。
禅を組んでいる時は足が痛かったり、腕が痛かったりすることもありますが、それを乗り越えると実にすっきりとした気持ちになるものです。
禅の楽しみでもあります。
武術の稽古、と言うだけでなく、楽しみとしての立禅も良いと思います。

                                                                      太気会 天野

 

  Q: HPをありがたく拝見させていただきました。ありがとうございます。
  
ここで質問なのですが。
立禅をすると偏差が危険だと伺いましたが。立禅のやり方を間違えますと。統合失調症になってしまうものなのですか?出来ればお返事おいただけると光栄です。
  
 
  A: メール拝見しました。
ええ、どういう風に答えていいのか戸惑います。
偏差が出る、とはどういう意味か解りません。
また、統合失調症になる、と言うことも聞いたことがありません。
たぶん、こういう事を言った人は立禅を何か神秘じみたことにしておきたい人でしょう。
禅を神秘化することで、それをやっている自分を権威じみたものにしていく。
何かとても貧しい発想です。
 
禅は自分と向かい合う一つの方法です。
自分自身と向かい合うことで、統合失調症になったり、おかしくなるなんて言うことがあるんでしょうか。
自分と向かい合うことができないほうが不健康なのでは、と思います。
 
心配しないで、じっくりと立禅を組んでください。

                                                                   太気会 天野
 

 

  Q: 久しぶりにメールします。以前も私の疑問に丁寧に答えていただき、今も一日15分は立禅、その後這いや練りを15分くらいずつを毎日続けております。最近、立禅の際、手と手のもわーとしたものでつながったような感触があることがあります。これも,先生がHPで以前ご説明されていた「神経が別のつながり方をするように」なり始めたということなのでしょうか。

また、長く立っていると雑念のようなものがいろいろ起こります。これではいけないのだろうけれども、意識はどういう状態がいいのだろうと思いいろいろな本を読んでみました。意拳では、様々なイメージを持つことが大切だと書かれたものがありました。一方で、韓氏意拳では意念を用いない、その形で立つまでの過程が大切と書いたものもあり、さらには気を回す感覚(周天)が大切、と書いたものもあり、結局わからなくなりました。

意念はやはり必要なのでしょうか? それとも「禅」という名のままに無念無想を目指すべきなのでしょうか? また、立禅→這い、練り→組み手と発展していく中で、意識というものはどのような状態であることが大切なのでしょうか。
お時間のおありの時に、お教え頂けないでしょうか。
                           
 
  A: ご無沙汰しています。
立禅などがんばっているようですね。

>手と手のもわーとしたものでつながったような感触が

とありますが、だんだんそうなってくるものです。
身体のまとまりが出来てきつつある、と言うことだと思います。
意拳等で、意念などを言いますが、それは繋がりをつけるための補助的なものということで考えていいと思います。
太気拳でも、沢井先生から「樹を抱くように」と言われましたが、身体が繋がってくると本当に樹を抱いているような感じになってきます。
「樹を抱くように」禅を組む、ではなく、禅を組んでいるとそのうち「樹を抱くよう」な感じになってくる、と言うことだと思います。
意念というのはそのような誘導に過ぎません。
一般的には「意念」の言葉が独り歩きしているようです。
だから身体が繋がり、また形が整ってきたら結果的ににそういった感じになる、と理解していいと思います。
また、つながりが感じられてきたら、今度はそのつながりを弄ぶようにしてみるとまた別のつながりも見えてきます。
両手が繋がって感じられたら、それを引き伸ばしたり捻ったりして身体のほかの部分との関係を探るのです。
是非いろいろ工夫してみてください。

> また,長く立っていると雑念のようなものがいろいろ

雑念は人の証拠、無念無想などは言葉の上のことです。
人は生きている限り「無」にはなれません。
何故なら、他との関係を探って生きていくのが生き物だからです。
無になってしまったら、世界との関係が切れてしまします。
逆に大事なのは、身体を緩めて身体全体の感覚器官を開くようにすること。
見て聞いて身体全体で気配を探るようにすることです。
無念無想と言う言葉から連想される「無くす」ではなく逆に「全て」です。
いってみれば全ての感覚器官を開くことで、はじめて「無」が出てくるのかもしれません。

> 立禅→這い,練り→組み手と発展していく中で、意識というものはどのような状態であることが

意識は、上に書いたような感じを守ります。
禅の感覚を失わずに練り・這い・組手をやればいいだけです。
と言ってもこれがなかなかですが。
意識や体の状態を含めてどんな風にすればいいのか、を探すための立禅です。
だから立禅で見つかったものがあったら、それを失わずにどうすれば這いが出来るか。
またどうすればその感触を失わずに練りや対人練習が出来るか、です。
いって見れば、立禅はマスターモデルです。
禅を生かす、とはその感覚を失わずにいる工夫をすることです。
動くと感覚が逃げてしまいがちですが、それを如何に逃がさないかが稽古です。

稽古をしていると、判らない事が洪水のようにやってきます。
判らないことだらけです。
判らないことの面白さは、傍から見て訳知り顔の人間にはそれこそ判らない世界です。
もっともっと判らないことを探してください、そうして少しでも先に進んで行きましょう。

                                                                     太気会 天野

 

  Q: 初めてメールさせて頂きます。私は、先生に太気拳の扉を読ませてもらい、独学で立禅と這をやっている者です。

それで日々、練習をするたびに独学でやっても立禅など上達できるのだろうか?などと考えています。

独学でやっても効果は表れるのでしょうか?お答え頂ければ幸いです、よろしくお願いします。

 

 
  A: メール拝見しました。

立禅や這いは、自分自身を探るためのものです。
あるいは探るための手がかりです。
禅や這いを通して自分の中にあるもうひとつのものを見つけていきます。
そういう意味では、私と一緒に稽古している弟子たちも、独習です。
立禅でも、こういう立ち方でいいんだろうか?這いの時はこれでいいんだろうか?と悩むものです。
悩まないものには答えは現れてきません。
そのときそのときに、答えは出てくるものです。
その積み重ねが稽古です。
立禅をやったことの無い人間は、立つことが難しいとすら思いません。
ですから疑問が出てきたら、それが進歩です。
疑問が無いところに前進はありません。


具体的に疑問が出てきたらまたメールいただければ、と思います。  

                                                                   太気会 天野
 

 

  Q: はじめてメールさせて頂きます。
私は腹部の手術を受けた後、医者に腹筋を鍛えるようにいわれたのですが、内家拳では筋肉をつけてはいけないのは本当なのですか?
腹圧が下がってしまい 特に這いが大変辛いです。
太気拳を続けていきたいので天野老師のアドバイスをよろしくお願いします。

 

 
  A: お腹にメスを入れたとの事。
とても大変でしたね。

さて文中に
>内家拳では筋肉をつけてはいけないのでは・・・
とありますが、正直そんな話は聞いた事がありません。

なんと言っても人は骨格を筋肉・腱等を利用して動かす事で活動します。
だから同じ動きなら筋繊維や腱が強靭な方が良いに決まっています。
太気拳でもそうですが、稽古は結構きついものです(勿論、楽にやろうとすれば幾らでも出来ますが)。
身体が虚弱な人間は別にして、普通であれば稽古の中で必要な筋肉などをつけていくものです。
また、それが一番合理的で調和の取れる身体の育て方だとおもます。
ただ、もともと虚弱であればある程度の筋肉トレーニングは必要かもしれません。
また、質問にあるように手術の後などで、明確に筋肉が落ちているのであれば、ある程度の筋肉トレーニングは当然必要だと思います。
特に腹筋が落ちるという事は、腹筋だけでなく当然背筋等の体幹部を保持する力が落ちているわけですし、当然肺活量など基本的なものが落ちている可能性もあります。
太気拳では腹・腰の安定した力はとても重要です。
と言う事で、ある程度の筋肉トレーニングは必要だと思います。

ここからは蛇足ですが、質問にあった「筋肉をつけてはいけない」というような誤解は何処から来るのでしょう。
多分それは、練習のときに「身体を緩める事が大事だ」という事を素人考えで考え違いしているのだと思います。
身体をなぜ緩めるのか?・・・それは必要とされる一瞬に(打つであれ逃げるであれ)、身体全体を調和のうちに爆発的に緊張させるためです。
緩んでいるからこそ一瞬の緊張が引き出せるのです。
つまり爆発的な緊張の為にこそ緩めるのです。
緩んでいる状態から瞬間的なテンションの転換、それが変化であり、速度であり。力です。
爆発的な緊張とは、神経・筋肉を含めたものです。
当然その時には筋繊維が強いほうがいいのは言うまでもありません。
ただ、一般的に考えられるように、腕や胸・肩などを鍛えても特に爆発力が上がる、と言うものではありません。
重いものを持ち上げるのなら、これで良いのですが武術の力とはそう言うものではないからです。
これは一度体験してみればすぐ判ります。
という事であまり筋肉トレーニングは勧めないのです。
また多くの場合筋肉トレーニングは、身体全体の調和とは逆の方向を向き、部分を専門的に鍛えると言う事が多いからです。

ちょっと蛇足が長くなりましたが(だから蛇足ですけど)、そういう訳ですから、素人考えに惑わされず、補助的に身体を鍛えながら太気拳の稽古をがんばってください。
 

                                                                   太気会 天野
                         

 

  Q: 昨日、立禅の際のわずかな手の動きについて質問し、早速のお返事を頂いた者です。あまりに早いお返事と明晰なご説明についわかったつもりになり、先ほど「わかりました」とメールしてしまいました。
が、もう一度立禅をしてみると、やはりわかっていないことに気が付きました。
たびたびのご質問、申し訳ございません。

天野先生からは:
さて、腕の動きについて。
これは別にわざと動かしているわけではありません。
ジッと立っていると、肩や肘、あるいは手指と色々なところの関節の不具合が感じられてくるものです。
それを少しずつ動かしながら調整します。
ですから、このように動く、とかいうものはありません。
要は自分の各部分の不都合な部分を探し、具合の好い様に変えていく、という作業です。

というお答えを頂きました。私は、剣道をしており、行き詰まりを感じる中で太気拳のことを知りました。何冊の本を元に毎日、30分程度の立禅と、這いや練りを合わせて30分くらい行うようにして3カ月ほどになります。しかし、わかりやすさという点でも、先生の『太気拳の扉』と『太気拳完全戦闘理論』は素晴らしいですので、疑問が出たらそこからヒントを得るようにしております。

先生のHPを拝見すると、Q&Aの中で、腕に張りが出たり、ゴムのボールをはさんでいるように感じるというのは、関節の不具合が調整されてきたから、というご説明があったように記憶しております。このような感覚は、しばらく前から私も感じることがあります。最近は、練りをしていると腕が重く感じることもあり、『秘伝』の先生の記事を見て、「水飴のような感覚」のお話とかさなるのかな、と思いました。
それでも、やはり、この不具合の調整ということが難しいのですが、調整がうまくいき始めた時の感覚には他にどのようなものがあるのかをお教え頂けないでしょうか。
 
また、今、何冊かの本を見てみると、意拳では「微動する」というような記述があります(佐藤聖二先生の文章でも拝見しました)。これは,上下,左右,前後に微動するとのことなのですが、この目的はやはり不具合を調整することなのでしょうか。

お時間がおありの時で結構ですので、お答えを頂けませんでしょうか。
 
 
  A: ○『調整がうまくいき始めた時の感覚には他にどのようなものがあるのか?』

うまく説明できませんが、腕が肩からぶら下がっているような感じ、とでも言えるかも知れません。
これで良い、と言うものではありませんから難しいですね。
ただ、ある程度整ってくると、見てすぐにわかります。
同じ様に立っているように見えても、内容のある立禅と、まとまる前のものとは全然違います。

○『上下,左右,前後に微動するとのことなのですが,この目的はやはり不具合を調整することなのでしょうか?』

微動、これは実に難しい質問です。色々な角度から考えることができます。
一番根本的なことから言うと、立禅は何のために組むか、という問いになります。
立禅を組むのは、ヒトの身体は普通の状態では整っていないものだ、という前提があるからです。
もちろんそんなことは無い、という人もいると思います。
それはそれでいいと思います。
しかし、私の理想と思う拳を実現しようとするには、ヒトの身体は不十分で整っていない。
だから整えるために禅を組む。
肩や腰を整える、各関節の落ち着きどころを探す。
探すから少し動く、わずかに動きながら探す。
これが前回の回答でした。

大きな意味では不具合を調整する、と言う事です。
しかしここではちょっと違う方向から見てみましょう。
禅の目的はひとつではありません。
「静の中に動を探る」ということがあります。
禅を組んでいて動こうとします。
前に行こうとしてやめます、後ろに動こうとしてやめます。
行こうとするのも戻ろうとするのも気持ちです。
その時、つまり気持ちが動こうとすると、それを止めようとする力を感じます。
だからやめるわけです。
その繰り返しが微動になります。

微動の原点は、この動こうとした時のそれを止めようとする力を感じるところから始まります。
つまり行こうとすると、戻そうという力を感じるのです。
前に行こうとして戻され後ろに下がろうとして押されるのです。
この微動が沢井先生の言われた独楽のような力かもしれません。
動こうとして準備ができるとそれを静止しようとする力を感じる、
で、別の方向に動こうとしてやめる、これを気持ちの速さで行う。

上下前後左右を意拳では六面といいます。
六面にこの微動を感じていれば動こうとした時にすぐに動き出せます。
何故なら動く準備ができているからです。
つまり上下前後左右に動く準備をしているのと同じだからです。
動けば時間が掛りますが、準備なら時間が掛りません。
普通は動こうとして準備して動きます。
ところが準備ができていればいつでもすぐに動き出せる、と言うわけです。
微動というのは動こうとして止められるからわずかな動きになるのです。

さて、此処で大事なのは止めようとする力とは何か、と言う事です。
動こうとするときにそれを止めようとする力。
動こうとする力は即ち運動エネルギーです。
正の方向に物が動こうとすれば、負の方向にも力が生まれます。
遠心力があれば求心力が生まれるのと同じです。
動くとするのを止めようとする位置エネルギーです。
それを感じる感性がヒトの身体に埋め込まれているということです。
それを六面に感じられるということはつまり、身体の軸がどの方向にもまとまっている、と言う事です。

どの方向にも身体がまとまっていて位置エネルギーを感じられる。
と言うことは、それが動いたときには大きな力が発生する、と言う事です。
位置エネルギーとは質量であり、質量が移動する距離と時間の関係が力ですから。
つまり、動きの速さと力を生み出す元が微動、と言う事です。
立禅の中のもうひとつの動的な部分が微動と言うわけです。
もちろん別の角度から見れば、他にも書きようがあると思いますが、とりあえずはこれをもって答えとさせてください。

                                                                    太気会 天野

 

  Q: 初めてメール致します。私は、先生の『太気拳の扉』と『太気拳完全戦闘理 論』をもとに独学している者です。難しいものを明晰な理論で説明されていることに驚いています。その中で生じた疑問が一つあるのですが。

DVDの中で先生やお弟子さん達は、立禅の際わずかに手を動かしているように見えます。これはなぜでしょうか?
また、動かすことがよい効果を上げるのであれば、どのような方法で動かすのがよいのでしょうか。
先生のDVDにもご本にも、立禅の最初に少し前後、もしくは左右に体を揺するというような記述がある他は、手を動かすことに関する解説がない(私の読み方が不足しているのかもしれません)ように思われるのですが、是非お教え頂けたらと思います。

  

 
  A: 独学で太気拳の稽古をしているとの事。
大変だと思いますが、がんばってください。
きっと何時かやっていてよかったという日が来ると思います。
 
さて、腕の動きについて。
これは別にわざと動かしているわけではありません。
ジッと立っていると、肩や肘、あるいは手指と色々なところの関節の不具合が感じられてくるものです。
それを少しずつ動かしながら調整します。
ですから、このように動く、とかいうものはありません。
要は自分の各部分の不都合な部分を探し、具合の好い様に変えていく、という作業です。
 
禅はジッと立つといっても、ただ立てばいいものではなく、こういった身体の調整を不断に続けていく稽古です。
だから決して動いてはいけない、と言うものではありません。
ジッとしていて、具合の悪いところを探る稽古でもあるわけです。
特に肩や股関節は可動角度が広いかわりに、きっちりと収めるのがなかなか厄介な部分です。
だから結構もぞもぞ動かして居心地のいい具合を探ることがよくあるのです。
日常生活では、怪我などしない限り、身体の収まり具合など気にもしないと思いますが、武術ではとても重要です。
普通の人は自分の身体がきちっと収まっていないのに気がついていません。
それが禅を組むことで、顕在化してくるのです。
それを少しずつ直して身体をまとめていくのが第一歩であり、目標でもあります。
なんと言っても身体がまとまらなければ、拳法にはなりませんから。
 
禅を組むのは、自分の身体を探ることです。
自分の身体と正面から向かい合って、身体を知って初めて人と向かい合って相手のことがわかるようになるのです。
一人で稽古するのは大変だと思いますが、何かあればまたメールを頂ければ、と思います。
がんばってください。
 

                                                                   太気会 天野

 

  Q: 意拳や太気拳に興味を持って天野先生の太気拳の扉も読ませてもらいました。そこで素人の質問で申し訳ないのですが質問があります。それは太気拳の這は腰を低くして行い、意拳
の這は腰を高くして行うと言うことなんですが佐藤嘉道先生の拳聖澤井健一先生の中で這は組手の時に必要な柔軟な足腰にするために重心を低くして行わなければならないと言う事なんですが、これを考えると意拳の這は問題があると思ってしまうのですが、どうなんでしょうか?
腰が高い這でも太気拳と同じような効果は得られているのでしょうか??

 

 
  A: さて、なかなか簡単には答えられない質問です。
太気拳も意拳も源は同じですから練習の格好も同じはず、がどうもそうではないぞ、というのが大方の感じ方かと思います。
特に立禅や這い等は太気拳が低く意拳は高めではないか、という印象があると思います。
この違いはどこから来たのかは私はわかりません。文革とかいろいろな原因はあると思いますが、それを調べるのは私の任ではありません。

ただ、言える事は腰は低くも、また高くも柔軟に動かなくてはならないこと。低いだけではなく、高低の変化がなければならないと言うことです。いくら腰が低くても低いだけでは不十分です。
確かに腰の高い這いばかりでは、柔軟な動きを引き出せるはずはありません。
太気拳のみではなく意拳にも腰を落としての練習は多くあります。
重心を落とし、足ではなく腰で這えるようにするのが大事だと思います。
また腰が低ければいいというものでもないと思います。自分にあった、あるいはしっくりと来るところを見つけるのも練習からです、そしてそれは意外と低いものです。

あせらず、自分を育てるつもりで練習してみてください。

                                                                   太気会 天野

 

  Q: 小生ささやかに剣道教室をつづけているものです。立禅をはじめたいのですが、危険だから我流でやるの反対だといわれました。禅病に落ちるとのことです。

ご意見を賜りたいのですが。また、よい指導書があればおしえてください。
 
 
  A: 立禅に関してのご質問ですが、我流でいいのかということ。

立禅は正直に言って我流しかありません。
私の立禅も我流といえば我流。
確かに先生に概略は教えて貰いましたが、そこから得たものは自分でつかみ出したものばかりです。
教えられるものがあるとしても、それは形ときっかけだけです。
立っていて何となく何かになるのではなく、これでいいのか、これでいいのかという疑問の末です。
立禅はどう組めばいいのか、と言う疑問に正解は無いと思います。
疑問の積み重ねがいつか何かを生み出していくのです。

よっぽどの馬鹿げた思い込み(立禅を組んでいると突然悟りが開けるとか)が無ければ、危険なんてこれぽっちもありません。
禅病というのは、思い込みでこうなって欲しいという事にからめとられているだけです。
虚心坦懐、ただ立ってみてください。
その時初めてどう立てばいいのか、疑問が湧いてきます。
その疑問と向き合うことが立禅です。

それからよい指導書は、との事。
これはまあ、私の本でも読んで入門書としてください。
とにかく、立禅は組んでみるところからしか始まりません。

しばらく組んでみて、どうしても聞いてみたい、という事が出てきたらまたメールをいただければ、と思います。

                                                                   太気会 天野

  

 

  Q: はじめまして。私は先生の挑戦講座のビデオを見ながら独学でして いる学生です。
 
質問なのですが、這いを行っているときに、後ろ足を引き付ける時は後ろ足側の骨盤を上げるつもりでやっているのですが、前に足を出して、体重移動 の際に前側の骨盤をあげることによって後ろ足で地面を蹴る(踏む)感じで体を前に送るようにして体重を前足に乗せたほうがいいのか、後ろ足の骨盤を上げて体を前に沈み込む(すでに前足は地面についているけど、前足で踏み込む感じ)ようにして体重を前足に乗せたほうがいいのか、どちらがいいのでしょうか。

文章がわかりにくい と思いますが、これが理解できないと先に進めない気がしますのでご返答お待ちして おります。

 

 
  A: >> 後ろ足を引き付ける時は後ろ足側の骨盤を上げるつもりでやっているのですが

前足に重心が移っているのならそれで良いと思います。

>> 前に足を出して、体重移動の際に前側の骨盤をあげることによって後ろ足で
>> 地面を蹴る(踏む)感じで体を前に送るようにして体重を前足に乗せたほうが
>> いいのか

それで良いと思います。
どちらにしても骨盤はシーソーのようなものですが、意識は引き上げるような感じのほうが良いようです。
引き上げる力で踏み込む力を引き出すようにしないと、身体が浮いてしまいます。

>> 後ろ足の骨盤を上げて
後ろ足の骨盤を上げるように意識するのは、後退する時です。

>> 理解できないと先に進めない気がしますのでご返答お待ちしております。
大切な事は悩む事、そして正解がないことを知る事です。
試行錯誤が成長の糧です。
理解できなくても先に進めないと思っても、悩んでいればいつか伸びていくものです。

頑張ってください。
                                                                   太気会 天野
 

  

  Q: こんにちは。先生のビデオを見て立禅をはじめた学生です。
質問なのですが、上下の力を感じるとき(体を沈めこむとき)に、おヘソの下あたりに力を入れると、体が沈み込めて、背中が広がるような気がするのですが、まちがいでしょうか。
もしよろしければ、上下の力の感じ方、正しいやり方などあれば教えていただけないでしょうか。
よろしくおねがいします。

 

 
  A: さて困りました。
上下の力の正しい感じ方、と言う質問。

こういった質問をする気持は非常によく分かります。
正しい方法、正しい形、正しい力の出し方ーーー。
私自身こういった疑問を実に何回も考えて来ました。
正しい立禅はどういうものか、半禅は、練りは、推手は、、組手は。
これでいいのか、これでいいのか、この繰り返しで時が経ってきた気がします。
でもそれを繰り返しているうちに、いつの間にか少しづつ方向が定まって来たのでした。

武術をやっていて正しいと言うことはあるんだろうか、と私はいつも考えます。
より良い、と言うことはあります。
しかし、正しいということは無いのでは、と思います。
いやむしろそれを探そうと必死になって努力し続ける事が武術の修行だと思います。
もし、これが正しいんだ、と言う先生が居たら会ってみたいものです。
きっとその人はもう武術を終っているんだと思います。

また逆に、これは明確に違う、と言う詐欺のようなものもあります。
それを初学者が見極めるのは難しいのかもしれません。
先生の言っている事とやっている事が一致しているかどうかを見極めるように注意してください。

さて、あなたがこれで良いんだろうか、と自分の感覚に疑問を持ち始めたこと、これはとても大事なことです。
これこそが武術の「入り口」に辿り着いた事の証明です。
多くの人はその疑問も持たずに形ばかりを求めます。
形にのみ気を使って、自分の内部の感覚に無頓着です。
これではどんなに練習しても何にもなりません、ただ練習がうまくなるだけです。

残念ながら今回の質問に明確に答えることはできません。
しかし、立禅の姿を見れば、その感じているところは大体見て取れます。
一度立禅をやっている所を見れば、幾らでも助言できるのですが。
ただ、上下の力に限らずですが、力は感じていれば良いので、力んで力を入れることは避けた方が良いでしょう。
メールからの印象では、がんばって独習しているようです。
多分それほどずれた練習はしていないと思います。

稽古をしていると「こんな感じでいいのかな」と言うのが感じられてきます。
そしてまたしばらくすると「これで良いんだろうか」と言う疑問がでてきます。
この繰り返しがあなたを少しづつ変えて行くのです。

私もこの繰り返しです。
今もその試行錯誤を繰り返しています。
トライ&エラーの連続。
トライをできる人間で居続けたいものです。
そしてエラーから学べる人間で居たいものです。

                                                                   太気会 天野

 

Q: 久しぶりにメールさせていただきます。
立禅、這い、基本的な練りをビデオを 見ながら稽古にはげみ約二年近くなります。立禅も最近は平均で30分くらい、這いも15分ぐらい出来るようになりました。フルコンタクト系の空手をやってますが、最近組手で自分ではまったく意識してないのですが、 差手みたいな捌き方が急に出て来たり、低い姿勢 からでも以前よりスムースに動けるようにはなりました。また自分の制空圏内に入ってきた打拳はなんとなくかわせるようには成長しました。
ただ私自身身体がそんなに大きくなく、パワーの部分ではいつも圧倒されてしまいます。天野先生のような発力や寸剄が出来ればと悔しい思いをいつもします。相手に密着して近距離からの打撃は格闘技においてはとても重要だと思います。
どのようにしたら寸剄や発剄を打てるようになりますか??
ぶしつけな質問で申し訳御座いません。
 
A: 久しぶりのメール、拝見しました。
一人での禅や這いの稽古、大変だと思います。がんばってください。
しかし、稽古をやって少しでもその成果を感じられるのは本当にうれしいことです。
何を覚えたとか言うことではなく、少しずつ自分の身体の可能性が広がっていく喜びです。

さて、メールにある発力に関してですが、これはなんともメールでは難しい。
弟子なども手を取ってでもなかなかわからないようです。
しかし、かといって発力が何か特別な技術だというのではありません。
また、なにか特別に凄い事だとも思いません、所詮は人にできることです。
要は身体の調和の問題です。
多分、ほとんどの人は、打撃というと腕で打つと思っています。
が、そうではなく身体全体のしなりとか緊張のテンションの変化とか、そう言った事のほうが重要です。
発力といっても、要は力、そして力とは質量とその移動距離と時間の関係の中にあるものです。
大事なことは、自分の身体を質量としてまとめる瞬間を作り上げることです。
それが発力の瞬間だと思っています。

残念ですが、言葉ではこんな抽象的な答えしかできません。
もどかしくはありますが、ここら辺が言葉の限界。
いくら言葉を尽くして原理を解明しても、そんな事が何の役に立たないのが武術。
しかし、やっていくことでしか、答えは出ませんが、やっていけばいつか答えてくれるのが武術だと思っています。
一人での練習は苦労もあると思います。
あきらめなければ、いつか陽が昇ると信じてがんばってください。

                        太気会 天野
 
 
Q: 天野先生
太気拳のホームページを拝見致しました。

私は以前より健康と護身のため武術に関心がありますが経験はありません。
若者が強い格闘技は年老いてから護身もできず健康でもないと感じて調べた結果、先生の太気拳と日本の伝統空手に至りました。
そこで先生に質問があります。

1. 先生は日本の伝統空手のご経験後なぜそれを続けず中国武術である太気拳に転向されたのですか。
個人的には、もし中国武術も伝統空手も健康と護身に有効であれば日本発祥のものがより日本人に合っている気がします。太気拳または中国武術の長所をお教え下さい。

2. 先生の本「太気拳の扉」は読んですぐ立禅などを試せるように書かれておりますか。
書籍は現在私が住んでいる海外からも購入可能なので、もしそうであればすぐ取り寄せて試してみたいと思います。
 
A: 武術や格闘技の経験が無いとの事ですが、かえってとても素直な質問だな、と思いました。

まず、何故僕が太気拳を始めたのか、ですが、これはとても単純です。
それは沢井先生に私の知っている世界と異質の世界を感じたからです。

僕が空手を始めたのは28歳、理由はもちろん強くなりたかったからです。
みんなより少しでも強くなりたかったから、結構一生懸命練習しました。
そして、大会でもある程度に成績を上げられるようになりました。
しかし、その時に思いました。
強さを評価するのに、大会での成績しかないのはおかしくは無いだろうか、と。
別の言い方をするなら、良い成績を上げても、強くなったとは全然感じられなかったのです。
打ち方や蹴り方を覚えて、それを使って組手で相手を倒した。
ただそれだけ、と言う感じでした。
自分が何にも変わっていないのは自分が一番知っていました。
かといって、実際の組手をやらない武術には興味はまるでもてません。
その時に出会ったのが沢井先生であり、太気拳だったわけです。
沢井先生と太気拳に新しい、そして自分の知らない世界があることを教えてもらったわけです。
以上が僕が太気拳を始めたきっかけです。

それから質問の中に、中国武術や伝統空手が健康と護身に有効、とありましたが、これは一概にYESとは言えません。
有効なものもあれば、そうでないものも一杯あると思います。
僕もあまり知りませんが、色々な武術があります。
それを一括りには出来ませんから。

そして、太気拳の長所と言うことですが、これはまあ、言ってみれば自然と言うことでしょう。
当たり前のことを当たり前にできるようにしていこうと言うのが太気拳だと思います。

それから、「太気拳の扉」についてですが、読んですぐ出来るように、とは考えて書いたつもりです。
しかし、言葉はあくまで言葉ですから、正しく伝わる事もあれば、読んで勘違いすることもあるかもしれません。
本を書いておいて、こんな事を言うのも変ですが、武術は言葉では伝わりません。
伝わるのは、身体で感じて初めて伝わるのだと思います。
だから、「太気拳の扉」を読むだけでなく、実際に禅を組んだりして身体で感じてみてください。
その上でないと、言葉を吟味する事も出来ないと思いますから。

                                太気会 天野
 
Q: 以前質問させて頂きましたKです。
現在、基礎講座No1を見ながら日々「立禅」に励んでおります。
そこで、最近じっと15分くらい立ち続けていると両腕を閉じようと内側へ静かに閉じようとするのですが、両腕の間に大きなゴムのボールを抱えているような妙な感覚があります。これはもしかしたら肩、腕がまだ力んでるのでしょうか??
もう少しリラックスした方が良いのでしょうか?
それと通常何分くらい「立禅」を行えば良いのでしょうか??
 
A: @両腕の間に大きなゴムのボールを抱えているような妙な感覚があります。

これは、別に問題ではありません。
むしろそういうようになるものです。
きっと、関節がきちっと嵌まり込み始めているのだと思います。
形が定まって来始めているという事でしょう。
そのうち、膝にも同じような感じが出てきます。
力が入っているのではなく、抜けてきているからだと思います。

A通常何分くらい「立禅」を行えば良いのでしょうか??

これはよく聞かれる質問ですが、何時も答えに困ります。
神宮で太気拳を始めた頃、沢井先生には毎日15分は立て、と言われました。これを目安にしていいと思います。
しかし、問題は時間の長さではなく、中身です。勉強をいくらやっても頭に入らなければ、何にもならないのと一緒です。

自分で練習していても、時によって立禅の時間は変わります。
10分の時もあれば、30分、40分と組む時もあります。
その時の気分しだいともいえます。

最初に質問のように、色々な感覚が出てくるのを楽しむような気持ちでやっていいと思います。

                      太気会 天野
Q: はじめてこのコーナーを利用させていただきます。私は海外で生活しているのですが、日本を発つ直前に天野先生の本とビデオを購入し、それを参考に一人でさびしく稽古をしています。日本にいた時は通っていた空手道場で意拳の稽古をする機会がたまにあり、ほとんど進歩せず「こんな感じかな?」という程度でしたが自分なりに考えたり、雑誌の特集などを参考にやっていました。
今は天野先生の説明のわかりやすさにとても感激して新たな気持ちで取り組んでいます。そんな中、それぞれ説明の仕方は違うけれど同じ事を言っているのか、という発見の喜びがある反面、どうしても疑問に思うこともあります。
 
今までは上下の力とは身体の伸び縮みを繰り返す事であり、攻撃を受ける時は身体を縮め、攻撃をする(突く等)時は身体を伸ばすのだという知識でいたのでそういう練習を繰り返してきました。たとえば試力歩法の時にも腰を中心に伸び縮みを繰り返しながら歩いていました。今回先生のビデオを拝見させていただいて、練り歩きの時や、相手に腕をつかませてコントロールする時に縮んだまま(重い体を作ったまま)前後に動いているというように私なりに理解したのですが、相手に力を伝える時に伸びる等と動作をわけずに、つねに重い体を作ったまま動くようにするべきなのでしょうか。
 
ビデオのNO.4は購入出来なかったのでもしその中にヒントが隠されていたら申し訳ありませんが、お時間ございましたらアドバイスお願いいたします。
  
A: 質問の件ですが、まず大きな間違いがあると思います。
それは「上下の力」に関してです。
意拳で言う「上下の力」とは、動きを意味するものではありません。
身体の上下動や攻防の動きを示すものでもありません。
「上下の力」とは、動き以前の身体の質を言います。
技術とか言う以前の質です。
どのような状態を保って動かなければならないかと言う時の質です。
たいていの場合誰でもそうですが、自分の身体をあるがままに受け入れて動いたり、蹴ったり、打ったりしています。
そのような状態では、「拳法にならない」と言うのがまず出発点です。
あるがままの身体の状態でいくら努力をしても、自分より、若く、力がある者をコントロールする事は出来るはずがありません。
当たり前です、何故なら、相手も同じだからです。
質が同じなら、若く、筋力に恵まれ、元気の良い人間に勝てる道理がありません。
ですから、まず身体の質を変えることが必要であり、その一番基本となるのが「上下の力」です。

「上下の力」とは、いってみれば、ヒトの身体全体をキュッとまとめて一つにしているような状態です。
言ってみれば、全身の関節がしっかりと緊結されているような状態です。
もちろんこれは、力を入れているのとも違います。
この状態を見つけ、失わないで、どんな時にも動ききるのが、拳法の最低限の要求であり、目的でもあります。
身体が伸びていても縮んでいても、また打つ時も避ける時もです。
文中に「重い体」とありましたが、この力が失われなければ、伸びていても縮んでいても十分に重い体でいられます。
そういった意味で、この「上下の力」は拳法を拳法たらしめるとも言えます。
拳法では、脚ではなく腹と腰で動く事が必要ですが、「上下の力」がなければその力も生まれません。

残念ながら、これは、「上下の力」のあるヒトに触れることでしか感じられないと思います。
また、逆に触れればすぐに納得できる事だと思います。

質問の答えになっているかどうか分かりませんが、少なくとも言葉で答えられるのはここまでです。
何時か、手を触れられる時が来ればいいのですが。

              太気会 天野

Q: 立禅をして約半年経ちました。1日最低でも朝晩合わせて30分くらい、それと這いを20分は行ってます。
近頃、手の指先に時折立禅中にピリピリ、チクチクという感覚がきます。特に腕が疲れているわけではないのですが、変な感覚です。
それと左右の腕の張りのような感覚を感じ、身体全体が固まってゆくような感覚を感じますが、これは一体なんでしょうか??まだリラックスできてないのでしょうか??

禅を組んでまだ半年ですが、挫折しそうな時があります。一体何の為に立ってるのだろうか??先生にもこんな時期があったのだろうか?と毎日悩みながら行ってます。そこから生み出される答えとはなんなのか?と。
でも「太気拳」を信じて、強くなることを信じて行ってます。時間がございましたらアドバイス願います。早く直接天野先生習いたいです。
 
A: メール拝見しました。
現在感じている色々な疑問、煩悶は誰でも経験するものだと思います。きちんと練習している証拠ともいえます。

さて、まず手指などの感覚の変化ですが、これはよくあることです。手先の膨張感や冷感、あるいは熱感は立禅中にはよく起こります。
よく気功の本には、これが重要だと書いてあったりしますが、特に意味はないと思います。立禅で日常生活の緊張が静まり、神経が別の整い方をしているからだと思います。これからもきっと、色々な感覚が出てくるかもしれません。それを楽しむぐらいでいいと思います。
立禅は不思議なもので、たとえば風邪で鼻が詰まっていたりしても、立禅を組むとすっと鼻が通ったりします。それがなぜかと考えるのもいいですが、そういう身体の不思議を素直に受け入れる事が一番大事なのかもしれません。頭が「理解」と言う事を出来なくても、身体は実に素直ですから。

ですが、もっと重要な事があります。腕の張りです。これは重要な事です。立禅で身体をまとめていく時に、この感覚はとても大事な事です。そのうち、腕だけでなく、首や肩、腰・膝、そして足首と言う風に様々な部分で張りを感じていくと思います。あるいは重苦しく感じるとも表現できるかもしれません。その感覚の評価は、お会いできればすぐにでも分かるのですが。言葉で説明しづらいですが、その感覚なしでは拳法は成り立たないと言えるくらいです。きっと腕が身体と繋がり始めているんだと思います。頑張って練習を続けてください。

「一体何のために立っているんだろう、これでいいんだろうか、いっそ今日でやめてしまおうか」、そんなことは今まで何回思ったかしれません。立禅はこうなのかな、と少し分かりかけてきた気がするのは本当に最近の事です。でも、これで良いんだと言う正解は無いと思います。たとえ毎日禅を組んでも、決して同じ禅は組めません。その時その時で、課題が違うからです。感じが違うからです。それこそ、今まで生きてきた年月を考えても、一日と同じ日が無かったのと同じです。「立禅はこう組むのが正しい」なんていう人がいたら、きっとその人は禅を組むのをやめてしまった人です。禅が面白いのは、昨日と違ったものが今日感じられるからです。それが進歩だと思います。一つの答えが分かると、また次の疑問が出てきます。決して後戻りがないのが、武術だと思います。

いつか、手を触れ合う時が来るのを楽しみにしています。

                      太気会 天野
 
Q: はじめまして、35歳にして最近「日本拳法」をはじめた華奢な身体の男です。
DVDの「大気拳戦闘理論」No1、No2と拝見させていただきました。
とても理解し易くあいまいさを排除したご指導はとてもためになります。

早速「立禅」を毎日20分間はかかさず行い、1ヶ月もするとなんかとても立禅するのが気持ち良くていい感じでしたが、3ヶ月目に突入したところで、どうも最近最初のような身体に変化が感じられなくなり、どうも退屈なのですが、姿勢等がおかしいのでしょうか??
DVDの通りには行ってるのですが・・・。
 
A: 毎日、20分の立禅をしているとの事、ひとりでやるのは大変だと思いますが頑張ってください。

さて、メールにありましたが、最近身体に変化が感じられないとのことですが、たぶん初期的なところが身体になじんで来たからだと思います。
最初に気持ちよく感じられたのは、何故なのか?それをじっくりと考えて禅を組むとまた違った観点から見直せるかもしれません。

具体的にどんな禅を組んでいるかがメールではまったくわかりませんので、アドバイスも何も出来ません。しかし、なんで禅を組んでいるか、何を求めて禅を組んでいるのか、は常に、自分に向かって疑問を発し続けてください。立っているときに、何を自分が感じているかをはっきりさせてみてください。
解っている事、解る事を探すのではなく、解らない事を探すことこそ、稽古だと思います。
なぜなら、何がわからないかを自分で理解できなければ、稽古の目的がなくなってしまいますから。

稽古の順序はどういうものかというと、まず、できない事・解らないことをはっきりとさせる。次に稽古のどの部分にそれを解決させる要素があるかを的確につかむ。そしてその要素を抽出して自分のものにする。
という風にして、再び次の課題に立ち向かう、というようになります。
これがはっきりしないと、どうしてもモチベーションが不十分になります。

一緒に練習する機会があればもう少し具体的なアドバイスが出来るのですが、メールでは、こういった抽象的なことしか言えないのが残念です。

                           太気会 天野
 
Q: 這いをやるときに、意拳的な高めの這いをやったり、太気拳的な低めのをやったりしています。高めの這いをやるときは;前進するときに前足つま先で地面をつかむ(引き上げる)→それにつれて踵が沈んで膝が前に出る →それにつれて後ろ足の膝が引き寄せられる、という感じでやってますが、これで正しいのでしょうか。

また、個人的には、そういう感覚がけっこうしっくりくるのですが、ただ、それを腰を低くした状態でやろうとすると、なんかぎこちなくなってしまいます。低い状態(前屈み状態)だと、「つま先でつかむ」よう意識すると、逆に腰が浮いてしまうような変な感じになってしまいます。高い姿勢では得られる感覚が、低い姿勢のときには消えてしまうという感じです。あるいは、姿勢の違いで、意識の持ち方も変えるべきなのでしょうか。
 
A: 高めの這いについては、それで良いでしょう。これは、別の表現を使うと前足で身体を引き込み、前脚に座り込むことになります。引き込むときには、足首・膝・腰が折りたたまれる感じです。

低い姿勢での這いで、ぎこちなくなるとのことですが、これは気分の問題ではないと思います。腰を低くしたときに、前かがみになりすぎ、腰の位置が重心線からずれているからです。人の身体は不思議なもんで、特に腰の力は重力が他動的に与えられていないと十分に機能しないようになっているようです。意拳でいうところの「上下の力が全ての基本」と言うのも、ここに由来していると思います。低い這いをやるときは、十分に姿勢に注意したほうがいいと思います。具体的には、頭の位置を少し引き、逆に腰を前に押し出すようにしてみると良いと思います。

それとこれは非常に重要な事ですが、前足を出したときに、前脚の側の股関節が閉じてしまっているのだと思います。この時、軸足の股関節が閉じ、前足の股関節が開くようになっていないと前足で身体を引き込む感覚はなくなってしまいます。さっきも言ったように、身体をひきつけると言う事は、前脚が縮むと言う事ですから、そのためには伸びていないと縮めない。伸びるはひらくであり、縮むは閉じると言うことですから当たり前と言うと当たり前の事です。
前足の感覚と言うきっかけがあるのですから、それを失わないと言う事を前提にして工夫して下さい。

                                        太氣会 天野


 
 
Q:  ホ−ムペ−ジの完成を楽しみに待っておりました。
さて、1人で稽古(本などを参考に)している者ですが、どのような稽古をどの位行ったらよいかわかりません。1人で稽古する人用のメニュ−を教えていただけないでしょうか。

A:  一人稽古のメニューといってもあまりに漠然としていて,返事に困ります。
練習にマスタープランはありません。人それぞれの状態にあった練習のやり方を見つけること自体が目的だともいえるからです。練習をしながらその課題を見つけていくしかありません。
ただ,あえて必要なことを挙げれば,自身の身体の声を聞ける練習をじっくりやればそれで初期の練習としては,十分だと思います。
 自身の身体が語りかけてくる、という事を見つけられればそれがすべての出発点になります。
まず、そのためにはのんびりと「立禅」を組むことだと思います。何分禅を組めば,こういう成果が上がるというものではありません。練習を時間ではなく,中身に求めるようにしてください。
気持ちの良い練習を見つけて,それが何故,気持ちが良いのか考えながらやればいいと思います。
どこにお住まいだかわかりませんが,機会があれば,「太氣拳基礎講座」にでも来て貰えればと思います。
                           太氣会 天野
つづきを読む
   
  
Q: ご無沙汰しております。会友員のDです。(中略)自分は膝の靭帯を断裂してしまってしまい、満足な稽古が出来ない状態ですが、座った状態で出来る稽古法について何かアドバイスしていただければ幸いです。座った状態で上半身は立禅の形ををし、立った状態をイメージしながらやるようにしています。膝を安静にしながらも、今後につながる稽古法を探し出したいと思っております。
お忙しいところ申し訳ありませんが御指導の程宜しくお願い致します。
 
 
A: 座っての練習のやり方は、いくらでもあります。ここでは的を幾つかに絞って書きます。
まず、課題の選定です。
  1)骨盤の傾斜による力を明確にする。
  2)背骨の力を感じ取り、上下の力に転換する。
とりあえず、この2点に焦点を合わせて書きたいと思います。

「骨盤の傾斜による力を明確にする」ために
まず、椅子は固めのものにします。長く座っていると、お尻が痛くなるようなやつです。学校の椅子を思い出せばいいと思います。あまり深く腰掛けず、上体は立禅の形を守ります。左右のお尻の骨が椅子に押し付けられるのが感じられると思います。その圧力が左右均等になっているのを確認してから、ゆっくり、右側の骨盤を引き上げるようにします。上体は、ゆっくりと右に傾きます。ある程度傾いたら、今度は、逆に左に骨盤を引き上げるようにします。左右の傾きが逆になります。
この左右の切り替えを最初はゆっくりと、そして慣れてきたら、時に急激に行います。ゆっくりと切り替えているときは、椅子はぎしぎしとなり、急激に切り替えたときは、がたんと大きな音がするような感じです。このとき、腰の筋肉と上体(特にわき腹)の緊張が感じられると思います。この感じを十分に味わってください。この左右の切り替えが、まるで両脇の壁に肩がぶつかり、跳ね返るように感じられればいいと思います。
この感覚は、立っているより、座っているほうが見つけやすいと思います。この力は、そのまま素早い歩法の変化や発力を生み出します。
太氣拳で